いしかわじゅんの「約束の地」という漫画に農夫病というギャグがあった。農夫病に伝染すると、路上でも室内でも、突然鍬をふるって耕し始める。日本人固有の風土病という設定だったが、なんだかうつされても構わないような明るい病気に見えた。
都市近郊の一坪貸し家庭農園や、アパートの窓辺に並ぶプランターや盆栽は、土を失った都市市民の植物への憧憬の象徴だ。その一方でマンションの谷間に残る市街農地は、手抜きの荒らしづくりに見える。土地を売って目先の現金を得るよりも、慣れた農業を続けたいという気持ちで、田畑を守ってはきたが、周囲の農村基盤がなくなると孤立無縁だ。隣の田んぼから順に使ってきた農業水路も、遠くから一枚の田んぼだけに引いてくる現状はぜいたくだとなじられる。近所の分譲住宅のガキどもは田んぼに空き缶を投げ捨て、親達は見て見ぬふりをする。後継ぎ息子はサラリーマンのレールにのっかった。農業は自分が働ける間の一代限りの道楽だと割り切ってしまえば、暇つぶし以上には気合いが入らない。畑の雑草がおやじの健康度のバロメーターだ。ついに、生産緑地地区指定という踏み絵が登場した。死ぬまで農業を続けるか、さもなくば宅地並み課税か。もしや息子が農業を継いでくれたら、なんてフィクションを国家は認めてくれない。自分の目の黒いうちに農地を見切る決断が迫られる。
郊外を行くとき、しっかりした百姓が丹精している田畑は、端から眺めるだけでもすがすがしさが味わえる。代掻きのすんだ水田の鏡のような静けさ。稲穂の露がきらめく夏の早朝の甘い香り。黄金色に波打つ秋の実り。麦わら帽子の点景。
その揺れる麦わら帽子の下では汗がしたたっている。百姓は厳しい肉体労働だ。経験と勘による技術力の差は農薬や化学肥料の投入量の差ほども認めてはもらえず、その上、旱魃冷害台風と最終成果は天候まかせ。生まれ落ちた私有地の生産基盤に一生拘束され、近隣社会との競争にしのぎをけずる、華やかさもやりがいもない生業だ。職業選択の自由が保障された時代に、誰がこんな仕事にしがみつくだろう。かくして明治期に七〇%以上いた農業人口が、百年後の今日五%を割るところまできた。全国の新規学卒者の農業就業数は千数百人規模で、民間大企業一社の採用数にさえ及ばない。
廃藩置県による中央集権化以降、都市と農村の分業が進行した。年貢プラス自給用だった作物がお金に換わる商品になって、百姓の考え方が一変した。完全に土地に縛られていた者が、現金経済の洗礼でその頸木を断ったのだ。村で飢えれば賃労働に逃げ込んで生きていくことができる。脱百姓のベクトルは一方的に都市へと向かった。だがこれは決して開放自由化なんてものではない。百姓しかしたことのなかった者達が、猫の目のような市場相場に叩かれて自給用の食物も残らなくなるという、封建制よりも厳しい経済環境ゆえに、郷里を捨てて都市労働者になったのだ。
今からわずか二世代ほどさかのぼった終戦時の農地解放までは、大半の百姓は私有地を持っていなかった。小作の身分で土地に縛りつけられ生かさず殺さず収奪された彼らに、人生と呼べるほどの価値があっただろうかと哀れむのは、個人主義のひとつの観念にすぎない、大きなお世話だ。哀れむべきは彼らだけだというのか。現代の都市サラリーマンは、仕事の段取りを自分で決めて、できたものを手にとって確かめられる主体性を持っているのか。重い年貢にあえぐ小作ではあったが、彼ら百姓の職場は風と水の通う大地であり、そこには生き物との対話と季節のリズムがあった。庄屋や地主も土地に縛りつけられていたのは同じことだから、その地の民衆や慣習と調和できなければ没落した。自分の汗と知恵で技術革新を為し遂げた村の篤農家は、末代までその名を語り継がれていた。
江戸時代の重税構造よりももっと百姓を傷つけたのは、現代日本の国家と大衆両面から浴びせられる農的価値否定の声である。百姓は毎日白いお米を食べられるようになったが、生産近代化競争に追い立てられて、農業機械、施設更新、土地改良の雪だるま式ローンや、彼ら自身の農薬中毒によりじわじわと首を締められている。保守的なはずの百姓をそこまで追い立てたのは誰だったのか。
日本の食糧自給率は低い。大量に余っていると言われ続けた米がたった一夏の凶作で在庫切れの大騒ぎになった。毎日パンばかり食ってる奴らが慌てて買いだめに走ってマスコミを喜ばせた。日本列島が不作の年は国民は黙って痛みを分かち合ったらいいだろう。農民感情を別にすれば、たまにはタイ米やカリフォルニア米の味見も面白いかもしれないが、既に開放された牛肉やオレンジを見る限り、農産物の輸入は単純な買い物ではなく、残留農薬のリスクや政治的見返りというオマケをしょい込むことになるわけだから、食糧自給の原則を軽視してはならない。だからって、自給率向上のためにさらに輸入化石燃料をつぎこんで大型農機と農薬とビニールハウスで、単位面積当たり収量を向上させることは無意味である。その反対で、食生活の欲求水準を下げて消費サイドの無駄をなくすことのほうが本質的だ。その気で選べば国内で手に入る安い食べ物はいっぱいある。季節の野菜と雑魚海草をおかずにごはんを食べ、晩酌に純米酒が一本つけば幸せじゃないか。
ちゃんとした有機農法でつくった野菜はおいしいけれど、少しくらい化学肥料や農薬を使っていても文句を言う資格のある消費者がどれだけいるか。あんたは目隠しテストでわかるのかい。賢い消費者と自称しても、ラベルを見なきゃ高い有機野菜とわからないくせに、一〇〇%有機肥料・無農薬にこだわるのはいびつなブランド志向だ。林檎や胡瓜の表面に吹く果粉を農薬と思い込んで毛嫌いするような、無知蒙昧なおばさんじゃないか。高級有機野菜サラダをたまに御召しになるグルメ趣味のために、農民が汗を流すのは情けない。
貿易黒字の問題でガットのたびに理不尽にいじめられるようなら、いっそ「農作物の輸入を一切止めるから、自動車も電気製品も輸出しません」と見えを切って鎖国したらどうだ。工場労働者だってみんなじいさんの代は百姓だろう。一房百円のバナナを食い飽きた過剰消費体質は、ちょっとは飢えなきゃまともにならないぞ。食品価格が軒並み上がっても、労働者が日々働いてものを考える体力くらいは養える。だいたい今のエンゲル係数は低すぎるんだから。食い物以外の消費を切り詰めてそれで死ぬようなやつは死んだらいい。グルメが崩壊して戦後の食糧不足の混乱が再現されたら、ブランド衣料もへんな絵かきのノンブル入りも、米や芋には交換できないぞ。今後の国際情勢次第で意外とすぐに訪れるかもしれない食糧危機の一波で、日本人の価値観が少しはまともになるかもしれないというのは甘い期待だろうか。
農業技術は実体験の蓄積だ。一回の試行錯誤に一年ずつかかるから、ベテランでも生涯五〇回余りしか米をつくれない。デスクワークでフヤフヤな指をしたような男は鍬を握れないし、たかが草抜きでも雑草で指を切る始末だ。食糧危機が訪れたとして、果たして彼らの帰農は可能だろうか。祖先の築いた棚田という大規模土木構築物は二〇年余りのメンテナンス放置のため既に崩壊している。一度雑草が茂り、雑木の根さえ張り始めた廃棄農地を蘇らせるのは新たに開墾するくらいのエネルギーを要する。一坪家庭菜園のミニトマトがお似合の彼らには備中鍬は重くて手に余るだろう。でもこのままでは中山間地の棚田は永久に蘇らず、農村風土も復活しない。下手くそなママゴトみたいな作業でも、ひとつの地区に何年もかければ、もしかしたら数十年前の風景に近づけることができるかもしれない。儲からない農業の復活になんて国家は一切援助してはくれないが、消費水準の後退という復古思想こそが子孫が生き延びる唯一の道だとがんばるわけだ。そんな帰農者が少しでも現れて定着し、初歩的な農業体験を積むまでは、師となる土地の古老に生き延びていてほしい。農学書なら農学部の本棚にたくさんあるが、学者には鍬は持てない。
Uターン帰農ブームを演出している町村がある。住宅や牛一頭や就農報奨金を切り札にして最大限の歓迎ぶりだ。子供に農業を継がせず、いずれはよその都市の優良納税者に仕立てるような地元教育に税金を注ぎ込むよりは、地域振興に直接有効かもしれない。ただし誰を受け入れるかは慎重に吟味すべきだ。都市の生産緑地指定制度のように、子供の人生まで担保にとるくらいのプレッシャーをかけた上で、始めて耕作権を認めたらいい。いずれ都市生活の矛盾と危険性は臨界点に達し、帰農がブームになるはずだから、安売りせずに差別化したらいい。帰農者への援助としては、当面不慣れで失敗が続くうちに食い物だけは食わせてやること。それに地域コミュニティーへの参加義務があれば十分だ。部屋に灯る明かりと図書館があれば文化的な生活と呼んでいい。
まあでも、こうした帰農ブームなんてのは極めて幸運な場合の未来観なので、あんまり脳天気な想像はよしにしておこう。都市市民が、こういう生き延び方に気がつくまで、農民のほうが一人でも生き残っていられればいいが、その前提となる社会環境や地球環境が心配だ。
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時間の流れが等速度じゃないことは感覚的にわかる。子供のころの一年はずいぶん長かったが、今ではたいくつな繰り返しだ。じいさんばあさんになれば孫の身長で歳月を測るようになるのだろう。宇宙物理学では、宇宙には始まりと終わりがあり、時間というのは相対的なものだと証明されている。いきなり宇宙論のレベルまでいかなくても、地球上の生物種にはすべて進化的な終わりかまたは淘汰による絶滅が待っているということも生物学の常識である。
等比級数的という言葉が環境問題のデータを扱った本によく出てくる。等比級数とはグラフにすると放物線を描くやつだ。人類史の時間目盛りを等間隔でX軸にし、Y軸に人口や各種の文明進歩を示す指標、例えば環境汚染物質総量や滅亡生物種の数をもってくると、たいていは放物線になる。X軸のスケールは何万年も必要ない。ここ百年あるいは三〇年くらいあれば十分だ。最近になるほど数値の上昇スピードが増すので、グラフに描けばYイコールXの累乗に傾きが強調された放物線になる。
だから過去の歴史を振り返って将来を予測するような場合、何百年も昔と今日を較べることにもそれなりに意義はあるが、それだけでは将来の変化スピードの予測を誤ってしまう。グラフの傾きが毎年急角度になっていく等比級数の変化では、より近い過去と較べたほうが格差が際立つから、変化の急激さを知ることができる。十年単位くらいで思い出せる個人体験の回顧による比較が明日の予測のためにより有効なのだ。
あらかじめ断わっておくが、私は楽観主義者である。世の中どうなろうと自分一人なら、嫌な仕事、嫌な奴とでもそこそこ折り合いをつけてやり過ごし、辛い目を避けておいしく酒飲んで老いていくことはできると思う。扶養家族についても日頃からぜいたくは敵だと言い聞かせてるので、その水準で人並みには食わせていくつもりだ。
こんな私の楽観でも悲観でもないかなり冷静な立場の直感によると、人類はあと百年くらいで滅びる。百年後といえば、一世代三〇年として孫が寿命を迎える頃、曾孫が四〇歳代で、曾々孫が中高生の頃という勘定だ。巨大シンクタンクでも数年先の予測を外してばかりなのが未来論だから人の言うことをあてにしないで、私の脳みそひとつにインプットされた知識を材料に直感で見抜こうと思うのだ。別の項で述べたことと重複するが、滅亡に至るシナリオはひっくるめて二つある。ひとつめは後進国が舞台となる全地球レベルの環境破壊と人口爆発による食糧危機と民族間衝突と免疫不能の難病群。ふたつめは先進国が病巣となるもので、勤労者の疎外感が引き起こす生産空洞化と信用経済破綻、それに続く犯罪増加や危機管理能力の喪失だ。三行以内で書けてしまった。
つい最近のバブル経済の破綻だって、そうなることを見抜いていた経済人はたくさんいるはずだが、立場上、正論が言えなかっただけなのだろう。露骨に騒げばインサイダー取引と言われかねない。さっき三行で書いたシナリオのひとつひとつの要素について、専門家が緻密なデータを用いて説き明かした書物は本屋にたくさん並んでいるし、並んでる程度には買う人もいるのだろう。だったら誰か「もうぜんぶおしまいだ」とはっきり言えばいいじゃないか。そんなことしたら無知蒙昧な大衆がパニックを起こすってわけか。私は楽観主義者だから、大衆は明後日よりも先の事まで考られるような想像力は持ってやしないと思う。みんなが絶望論の展開を遠慮しているようだから、誰も言ってくれないことをこうして私がつい書いてみたくなったわけだ。歴史上誰も滅亡を語らなかったわけではあるまい。きっと私の勉強不足だと思うので、この文章が仕上がったら次の研究テーマとして終末思想の系譜について調べてみようかな。
昨年(一九九四年)のいつだったか夜のニュースショーで見たのだが、あんまりばかばかしい事件だったからか、その後データネットワークで調べようとしても新聞記事検索では見つからなくて、確認しようがなくなった話がある。そいつは「その日で世界が滅びる」という韓国の新興宗教団体の取材だった。世界の終末を迎えるべく最後の集会に集まった数十人の信者達は、時計を背に深夜0時まで祈り続けた神父に、コトが起こらなかったじゃないかと詰め寄った。恰幅のいいおばさんが、「家を捨ててきたのにどう責任とってくれるのか」と食ってかかっていた。まったくこの映像には心から笑わせてもらったので、テレビもばかにできないね。おまえらほんとにその日の滅亡を信じてたなら、人民寺院みたいに集団自殺してみせたらどうだ。神父も神父だ、「うっかり百年ほど計算を間違えてました、ごめんなさい」とすぐにフォローしろ。百年先なら信者はみんな死んでるから絶対に嘘じゃないぞ。そういうわけで、私も確信をもってあと百年だと言ってるんだ。
ノストラダムスは何世紀も先の未来を描けたから偉大だ。一九九九年滅亡というのはいささか眉唾だが、二〇世紀末の地獄絵図については天才的に本質をとらえて描けている。「タイムマシーン」を書いたジュールウェルスもそうだが、当時の科学知識レベルでは絶対予知不能だったはずの未来、すなわち現在を描いて見せた人はいる。彼らのすさまじい想像力に較べれば今からたった百年先を読むくらい簡単だ。先端技術への投資が衰退し、進歩が無限の未知数ではなくなり、研究者のテーマの半分程度の実現がせいぜいだと思えばいい。賢い子供たちは鉄腕アトムが空飛ぶ未来を信じない。
地球上の人類が世界戦争の核爆発で一瞬に滅びるなんてシナリオは私の想像においてもSFにすぎないが、民族単位の抗争と消滅が短期間に連鎖反応する状況を想定すれば、人類滅亡もまんざら嘘ではないだろう。民族単位ならば、アメリカインディアンも北日本のアイヌ民族も、実際に数十年で殲滅されている。わずか一世紀の間に駲致された先進国のヒューマニズムなんて、人口爆発の前では風前の灯だ。これからの百年間の価値観変化のスピードは二〇世紀どころじゃないからね。
技術進歩は「理性的な」科学者がリードするものだから、そこにはちゃんとルールがなければならなかった。Aという有益な目的物を生産する過程でBという有害な副産物が生じるなら、副産物Bを安全に抹消する方法を編み出すまでAは作るべきじゃないというのが常識だ。こんなあたりまえの手順をふまずに、やっかいな課題は無責任にもすべて後世に積み残している。核兵器や原発や、燃やせば必ず有害ガスの出る石油化学製品、鉄筋コンクリートの建造物も壊すのには大変なエネルギーがいる。産業廃棄物処理という後始末課題を研究する専門家は偉いと思うが、脚光を浴びる新製品の研究開発に較べれば地味で大変な仕事だ。責任をとるべき企業団体は採算に貢献しない課題にはいやいやしか資金を出さないから、大切な研究なのに辛いものがある。世代間で較べてみれば我々以下の世代は、やりたい放題してきた年寄り連中に押しつけられた課題を早く解決しなければ、自分の子供の生存が危うくなるわけだから焦ってしまう。
巨大プラントや原発といった装置は日常の運転管理だけでも気を使う。コンピュータ制御と言ったって、プログラムを作ったり、安全装置をON・OFFするのは生身の人間だ。精神の安定性の高い人が地球防衛軍みたいな使命感をもち、危険性の予測と点検をたゆまず続けて、やっと事故ゼロ連続記録が達成できるというようなものだから、夫婦喧嘩をしたり二日酔いをしたりするアホな人間のレベルを考えると危なくてしょうがない。日本も原発を作ったからには腹をくくったほうがいい。事故ゼロ記録が本当なら、当たり前だと軽視せずに絶賛してやったらいいようなもんだ。
現代の滅亡のイメージは米ソ冷戦当時の思想間、国家間の核戦争ではなくなった。むしろ人間のつくった化学物質や、エイズやガンなどのウイルスや、異常気象や、原発事故など、人間以外の存在が大きな敵となって現れた。地球上の生物で一等賞を誇った人類でも太刀打ちできない課題が見えてきた。数十年前までは医学や農学などの分野で人類の生存のための研究は着実に成果を上げていた。科学者は大衆から評価を浴びて歴史に名を残すことができた。果たして今、偉人伝やノーベル賞に心ときめかす子供がいるだろうか。頑張って数学の勉強をして理系の学部に入り、細分化した研究テーマを追いかけて立派な学術論文を発表しても、そんな専門用語の通用しない大衆の価値観が最終的な人類存亡のキーポイントを握っているのだ。地球環境と人類の将来を憂慮して、大衆に理性と節度を求めるような人こそが現代の偉人といえるのだが、そんな人が大衆の人気を得られるわけはない。
滅亡から逆算して三世代目くらいになる私たちは、未来を憂いても偽善に聞こえ、未来を信じても馬鹿に思われる、そういうぎりぎりの時代を大人として過ごしている。孫達からの恨みの言葉は予想がつく。悪いのはじいさんだけじゃない、だんだん悪くなったのだと言い訳したいところだが、踏切板を蹴って都市の生活へ飛び出したの確かに私の代なのだ。
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オウムについて語る人々のバカ三態
《いっぺんに飽きるほどニュースを見るバカ》
一九九五年二月以来、地下鉄サリン事件、国松警察庁長官狙撃、サティアン強制捜索、麻原「尊師」逮捕、しばらくして坂本弁護士一家の遺体発見と、ひととおり画面に映える報道が一段落した九月になって、今度は「オウム報道は何だったのか」という自己総括が評論家およびマスコミ自身によって始められた。自分で特集を組んでさんざん煽り立てて視聴率を稼いでおいてから、いつものように大衆社会の生んだ現象だったなどと、大所高所から説きおろすのはおこがましい。
私も地下鉄サリン事件以来三日間は、新聞やテレビの報道特集を網羅していたので、職場で事件通と言われたが、飽きるのも早かった。坂本弁護士一家拉致(実は即皆殺し)にしろ松本サリン事件にしろ地下鉄サリンにしろ、動機が明白なので、黒幕はオウムだと誰でも直感できる。オウムがどんな雰囲気を持った集団なのかについては、同じような特集番組をどの局でも繰り返しているので、一回どこかで勉強すればこと足りる。事件の概要を自分なりに整理してしまえば、延々とニュースをつけっぱなしにしておく必要はない。それなのに、みんなが同じニュースを繰り返し聞きたがるのは、自分がそれを知っていたことを確認したいからである。
昼間のワイドショーで、息子を教団に奪われたおばちゃんの嘆きとか、元信者の告白なんかを聞かされてどうするんだと思うけれど、主婦の興味レベルにはそのへんが一番訴えかけるらしい。自分は大丈夫だけど、都会の大学へ行って音沙汰のない息子が心配だ、なんて言ってるのも大義名分で、やっぱり他人の不幸を楽しみたくてスイッチを切れないだけなのだ。「信じていたのに騙された」なんて言ってる素直そうな信者に共感する奴もバカの仲間である。「信じる」ことは「騙されてもいい」という意味を内包している。宗教でも男女の仲でも一緒だろう。だからずる賢いオバさんには、新興宗教のお誘いもかからないじゃないか。
頭が切れて、なかなか爽やかなフェイスの上佑広報官は、ロシアにいてアリバイがあったため、堂々とテレビに出演して、キャスターや評論家の論理能力の弱さを曝してくれた。視聴者も上佑にはコンプレックスを持っている。いつかあいつの尻尾を捕まえてくれと悔しがり、雁首並べた弱い対戦者たちの方に声援を贈っていた。判官びいきの逆転現象である。
孤軍奮闘でお疲れ気味だった上佑も、やっぱり逮捕されてしまった。それまでの彼の存在意義からすれば明白な別件逮捕だった。次々と幹部をぶちこまれてからは、拘置所の密室にテレビカメラは入り込めない。オウムはマスコミにとって金の成る木だったはずである。上佑でさえ半年もたずに大衆に飽きられて、お払い箱ということか。早々と冷めかかっていた私は、上佑VS江川のショーをまだ飽きるほど見ていなかったので、ちょっと残念である。
《急に法律をオモチャにするバカ》
松本サリン報道が半年以上も等閑視されたのも、その後のいくつもの事件がオウムの「疑い」として奥歯にモノが挟まったような口調で報じられたのも、適切な捜査手順を踏んで確たる物的証拠を押さえなければ、犯人だと言い切れない民主国家の司法原則に基づいている。オウム以外誰がやるもんかという大衆の直感、それは担当刑事やオウムの末端信者にとっても暗黙の了解である。ところが、直感を語ることがどれだけ大変かは、小林よしのり『ゴーマニズム宣言』を読めばわかる。現場にプルシャ(オウムのバッジ)が落ちていた坂本弁護士事件を、小林はオウムのしわざだと堂々と指摘したため、青山弁護士に告訴されて孤軍奮闘だった。
大衆は、内心では強引にしょっぴけと思っているのに、警察の軽微罪逮捕や違法捜査には目くじらを立てる屈折した審判員である。司法警察はマスコミに日々監視されて、刑事訴訟法の手続きをしながら、ぼちぼち捜査を進めるしかない。もともと小細工の苦手なウブな思想犯のオウム幹部数名を追い詰めるために、数万人の警官や機動隊員を全国から招集するのはバカバカしい無駄遣いだけれど、地味で面倒な証拠集めについては彼ら専門家にやらせるしかない。大将が撃たれて褌締め直したところを見せてもらおう。直接には何の怨恨も持たない大衆が、テレビ映像だけで下手な推理を働かせ、検察を煽るのは単なる野次馬というものだ。
司法手続きでは省略が許されないのに、せっかちな取材陣と、逮捕シーンを見逃すまいと目を凝らしている大衆は、その瞬間までじっと静かに待っていてはくれない。手持ち無沙汰なものだから、今まで何の興味もなかった宗教法人法をオモチャにして騒ぎ始めた。オウム真理教が宗教法人だろうとなかろうと、今回の事件の本質とは関係ないのに、寝耳に水の公明党までつきあわせてはしゃいでいる。
思想信教の自由を守られた宗教法人に対しては強制捜査できない、というのは確かに大衆感覚にそぐわないが、今回に限って警察権力は、かつて労働者の「団結権」や大学の「自治」を真っ正面から踏みにじったようには無茶ができないようである。組合や自治会なんかと宗教法人では政治的影響力の格が違う。民主憲法のもと、歴史的蓄積のない新興宗教もみんな平等に認可してしまったのだからしかたない。そもそも根拠のないもの同士には優劣つけがたい。これからは、お布施からもきちんと税金とった上で営業競争させたらいい。宗教のひとつやふたつ潰れたって信者は路頭に迷いはしない。捨てる神あれば拾う神ありというじゃないか。
文部省管轄の宗教法人法では、「カルト」新興宗教による無差別殺人には器が小さすぎる。彼らを処遇するに何が一番妥当かと言うと、騒乱罪で国事犯というあたりだろう。彼らは宗教「革命」戦争を仕掛けきてるんだから、誠実に受け止めて応戦してやれよ。評論家も警察も大衆も、国防意識がまだまだ弱いぞ。
というようなことを二カ月前に書いていたら、十二月には本当に破防法が適用される見通しとなった。冗談をマジでやられてしまった。伝家の宝刀を一度抜いてみたかった古参政治家の生け贄にされたわけである。幹部を弁護士ごとぶちこんで足腰立たなくしておいて、とどめに解散命令まで出すなんて、大人げないと言う者もいるだろうが、政府は本気でオウムを恐れているのだからしかたない。大衆の不安を鎮めるという魔女裁判みたいな口実に、社会党の村山は反論しなかった。
一連の政府の強行姿勢は、いわゆる泥棒に入られてから縄をなうの典型であった。こんなドタバタ騒ぎで、かえって国家の脆弱さが見透かされたから、また次のグループに革命蜂起を思いつかせたかもしれない。
《自分には何にもないくせにカルト宗教をバカにするバカ》
よくあるオウム報道の暇つぶしに、信者と同世代の若い奴らをつかまえて「あなたはオウム信者をどう思いますか」と尋ねるインタビューがあった。ミエミエの誘導質問だから、どう答えればどう編集されるか予測がつく。そもそもバカなレポーターに真面目につき合ってもしかたないと思うから、みんな似たようなことしか答えはしない。それでもマスコミの習い性として、「健全な大衆と異常なオウム」という構図を描くための陳腐な質問を繰り返している。
たまたま必要以上に真面目な奴が、そんな質問に出くわして「オウムにすがらざるを得ない信者の不安がわかります‥‥」なんてしゃべり出すと、たちまち三流評論家が言いたくてしかたない「オウム世代の広がり」論の餌食になってしまう。どう共感したかというニュアンスは無視され、番組のシナリオに沿ってきれいにまとめられ、もとの発言の本質は消える。
キッパリと「関係ないっすよ」と切り捨てるテレビ映りのいい奴らが、みんな本気でそう思っているとしたら、そのほうがよっぽど危ないと私は思う。常に何も考えてない彼ら自身には毒さえないが、少しだけモノを考え出した奴が、圧倒的多数の何もない奴らに混じっている状態がヤバいのである。自分の周りの連中に愛想を尽かして孤立感をもった奴らが、新興宗教にエネルギーを注ぎ込むのだ。いい歳になるまでに、坊主に憧れたり失望したりしていないのは体験の貧困である。宗教なんてものはSEXし始める前にちょっとだけかじっておくくらいがちょうどいい。
たいていの宗教は、それがいつかという設定は違っていても、なんらかの形でハルマゲドン(最終戦争と審判と滅亡)の危機感をあおって布教の武器にしてきたのではなかろうか。世の中はずっとこのままですとか、ほっといてもだんだん天国は近づいてきますとか言ってたんじゃ弟子もお布施も集まらない。
このまま資源浪費と環境破壊を続ければ、人類は遠からず滅亡するということが科学的に示されたのは、つい最近のことである。唯物論者のほうがよっぽど救いを求めたいくらいだ。科学記事に鼻も引っかけないでバラ色の未来を信じていられる観念論の連中だけが、思い残す事なく大往生できるから、宗教と関係なしでいられる。
滅亡に気づいた時に、どんなスタンスをとるかはいろいろあるだろうが、オウムのように集団を作って生き延びようとするのは、わりと素直な対応だと思う。彼らの方針の細部には批判すべき点がたくさんあるけれど、出発点にある人類滅亡への危機感を、荒唐無稽と切り捨てるような論調に、私は愛想が尽きている。
ある世代から下は、半分に近い割合まで、直感的にオウムと危機感を共有しているのに、誰もはっきりとそのことを口にしない。言葉にして認めたが最後、麻原のハッタリにかわる指針を示せない自分に気づくからである。しかたがないから、「偏差値世代、パソコン世代、オタク世代がオウムの温床になった」などというネゴトを「ああそうかいな」と聞き流している。
オウム信者のバカ三態
《生き延びるために布教するバカ》
オウム真理教信者の動機の純粋さにはシンパシーを感じるが、集団化大規模化していく姿勢は徹底的にダサイと思う。「オウムも二〇人くらいでワイワイやってりゃかわいいもんだったのに」と、森毅がコメントしていたが、森センセはここ一五年くらいの京都大学の学生運動になぞらえてるにちがいない。情けないことに、私はそのかわいい連中の端くれだった。最後には数合わせが必要になる学生自治会はともかくとして、オウムは修行で自分を変えていく宗教なんだから、他人の心配をすることはあるまいに。
パトロンなしで修行三昧をするには、教団の経営基盤を固める必要がある。だからといって、あせって小金持のアホどもに「解脱」を安売りすることはない。急拡大さえしなければパソコンショップだけでもそこそこ食っていける。才能も情熱もあるのだから、舵の取り方次第ではもっとスマートな営業方針を立てられたはずだ。うまくいけば、創価学会や幸福の科学とは一風違う、梁山泊みたいな組織をつくれたかもしれないのに。
麻原の不気味なキャラクターを、うまく生かせなかった教団の広報戦略はお粗末だった。あの男は人前で喋らせないほうがいい。瞑想室でメロン食わせて、おとなしくしててもらえばよかった。参院選比例区に出たいなんて気まぐれを、誰も止められなかったのか。壇上で並んでいた連中はけっこう恥ずかしそうに見えたぞ。歯止めのきかない尊師の組織拡大欲求が集団の命取りになった。
リーダーのパフォーマンスはシャレだと割り切って、影で操縦するような幹部が何人か必要だった。尊師をはぐらかしながらあと十年潜伏させて、それから登場させたら、大衆の不安は今より膨らんでいるはずだから、オウムへの期待はもっと強まっただろう。その時でも、もちろん選挙なんて勘違いである。
尊師の残り湯が十万円でも、ヘッドギアが百万円でもいい。金持ちが天国へ行くのは針の穴に駱駝を通すよりむづかしい、という二千年前からの真理があるくらいだから、むしり取るのは構わない。在家信者にホラ話を聞かせるのに、たいした手間はかからない。でも、家屋敷を売らせて完全に身ぐるみ剥いでしまったらその後がやっかいだ。すぐに騙されるような知能レベルの哀れな信者大衆を、たくさん出家させて手元に抱え込んでどうするの。次から次へとポアしてばかりはいられない。幹部が生き残るためには足手まといになるだけである。マゾヒスティックな末端信者は言われたとおり勧誘にのめり込むから、同じようなスカばかりが拡大再生産されてしまう。上等なお客の見分け方を教えといてやれよ。
その点、ロシアで布教するというビジョンはかなりよかった。余生を過ごすサティアンは、上九一色村よりもウクライナあたりが素敵じゃないか。金はないけど救いを望むきれいなネーチャンがいっぱいいそうだ。そんな聖地にヘリコプターで幹部だけが高飛びする、よど号以来の見事な脱出譚が見たかった。宗教は民主主義でも一株一票でもないんだから、末端信者は指くわえてるしかないのである。
《富士の裾野でサティアンにこもるバカ》
尊師の営業方針で出家信者をたくさん集めてしまったから、富士の裾野に広大な土地を買って、安普請のサティアンを並べた。二四時間見張りつきの貧相なプレハブ建築は、中核派の「要塞」みたいである。その中に閉じ込めて尊師のテープのリピートばかり聞かせていたんじゃ神経がもたない。彼らもいちおう高いお布教を積んで救いを求めてきたお客さんなんだから、せめて都会よりおいしい空気を吸わせてやれよ。タダなんだし。
坂本一家を埋める場所に相当なこだわりを示したオウムのことだから、上九一色村のロケーションにもきっとカルト的意味づけがあるのだろう。しかし、朝夕窓から富士の雄姿を眺めるだけで、おのずと思想が薫陶されるというわけにもいくまい。風土に応じた生活をしなければ、せっかくの環境がもったいない。なるほどそんな僻地なら、東京発のハルマゲドンから生き残れる確率は高いだろうが、生き延びてからどうするつもりなんだ。いつまでもインスタントラーメンは食ってられないぞ。準備するなら今のうちである。熱い湯に入ったり、大量の水を飲んだりして体質変えるよりも、火山灰土を耕して汗かいたほうが早い。太った信者ならお布施を積んででもさせてもらいたい修行である。残念なことに農業志向を持つ幹部は一人もいなかったようだ。
自分たちが幸福な集団だと思えば思うほど防衛意識が高まる。武器を確保し外界を隔離しておこうと思うだろう。自衛や武装の必然性はわかるが、拙速ではいけない。しょっぱなから自家製サリンが漏れて外出禁止なんてヘマをうつと、組織内の隠蔽工作だけで消耗してしまう。非戦闘要員の子供と母親信者は緊張感が続かないんだから、こぎれいで安全な環境においとかないと煩くて大変だ。飛びもしないヘリコプターを買う金があるなら生活環境を整備しろって、日本共産党に攻撃されるぞ。
どうせロシアまで連れては行けない捨て石の連中だけど、やばい都市から逃げてきた気持ちだけは汲んで、富士の原野に置き去りにされても自力で生きていける道を示してやらないと可哀相じゃないか。
《ハルマゲドンを自分でおこすバカ》
坂本弁護士一家殺害は、そのあとのサリン事件による別件逮捕がなければ、おそらく時効までいっただろう。物証を落としているのに、あそこまで堂々と居直れるということは、一般に都市の密室拉致事件は、容易に完全犯罪にできるということなのだ。ターゲットよりも少し多い人数で仕掛ければ、そして共犯者の口が固ければ、殺人は難しいことではない。殺すだけなら小中学生でもできるけれど、子供は車が運転できないから自制しているだけである。身辺護衛付きのVIPはいざ知らず、一般大衆が組織に命を狙われたら、治安大国日本でもお寒いばかりだ。マスコミも警察も興味を示さない有象無象の行方不明事件は、ヤクザ絡みならいくらでもあるだろう。
邪魔者は消すということを実行したのはオウムの路線転換だった。一人殺すも沢山殺すも同じことである。とはいえ、いつケツを割るかわからない鉄砲玉に、現金をつかませて口封じするというのは、会津小鉄会や連合赤軍より甘っちょろいやり方だった。金なんて一度渡せば癖になるんだから、もっと毅然と臨まないといけない。
彼らが次の冒険に踏み出したのはサリン製造だった。ローコストで作れて殺傷力が高い毒ガスは、大国を恐怖に陥れる「貧者の核兵器」と呼ばれている。それにしても、短期間でスタッフと器材と原料を集められたオウムの組織力は立派である。爆弾しか能がない弱小テロリスト集団は、きっとうらやましがってるはずだ。
それだけ貴重な一発なんだから、無駄弾を撃ってほしくない。松本でいきなり失敗して「流れ弾」で民間人を犠牲にしてしまったのもお粗末だし、霞が関を狙うにしてもイージーな地下鉄置き逃げではあんまり手抜きである。自衛隊に突入した三島を見習って、警視庁中枢に踏み込んでからビニール袋を目の前でつついて自爆したらどうだ。
オウムはあんまりテレビや週刊誌を見る暇がないからか、大衆の心理がつかめていない。警察庁長官狙撃はまぐれ当たりだったが、都庁郵便物爆弾で青島の秘書が血祭りというのは誰も納得しない。
あるいは、核兵器は隠しもってるウワサだけでも十分な威力を発揮する。マスコミに騒がれる前に裏取引に使えばいいじゃないか。例えば銀行とか自衛隊とか創価学会とか、イメージを気にする大組織ほど落としやすい。数億円の裏金でグリコと手を打って、いつのまにか時効になった「かい人二一面相」を見習えばいい。
一連の下手な軍事行動のツケがまわり、切羽詰まって自作自演出の地下鉄ハルマゲドンに至ったわけだが、エリート幹部たちは、その杜撰な作戦指令を聞いて、さすがに観念しただろう。生き延びるはずの自分が「ハルマゲドンの鉄砲玉」では情けない。焦らなくても滅亡はいずれやってくると日頃から語っていたのに。ウクライナのネーチャンと楽園を築くはずだったのに。彼らはいったい何を守ろうとして戦地に向かったのだろうか。故郷のオフクロとかゆうべ寝た女とかを思い描くならば、救いもあろうってもんだが、まさかその時に麻原のヒゲズラが浮かんできたんじゃないだろうな。それじゃあんまりつらすぎる。
二五年前の連合赤軍は、階級構造論に基づいて共産主義世界革命をめざした。敗北の過程をなぞらえることができるかもしれないが、ヨガや密教に近いオウムは基本的に小乗の教えだから、悟った者だけが救われる価値観である。左翼集団よりずっと大規模になっても、自分が大衆から逃げ出すことに精一杯で、階級的連帯どころじゃなかった。
いろんな価値観をもつ小さなグループが、世界各地で生き残りをめざしてしのぎを削るこれからの時代、オウムの暴走過程はきっと彼らの有効なテキストになるだろう。武闘路線をめざすグループにとっても、彼らの失敗はコヤシにこそなれ、決してブレーキにはならないはずである
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《国際労働市場と日本の産業》
イギリス、アメリカ、日本の順で先進国の産業が空洞化して、香港、韓国、シンガポールのような第二の成長国家群が生まれた。それがさらに第三の周縁グループにまで段階的に波及する頃には、南北国家群の経済格差はかなり薄まっているだろう。ECや北米経済圏に続いて、東アジアも二〇年以内に広域自由経済圏になる。日本人は、韓国人だけでなく十億の中国人民と一線に並んで経済競争を戦わねばならない。
たとえば日本国内では圧倒的に所得に差があるために、誰もが見捨ててしまった農林漁業でも、砂漠化に追い立てられる南側辺境の農漁民にとってみれば、気候温暖な恵まれた風土に見えるだろう。人手さえあれば、もう一度豊かな村に再生できる条件はあるのだ。食糧自給を早くからあきらめた日本人が、捨てて顧みない農地を、外国人開拓者に閉ざしておく口実はどこにもない。
工業分野でも同じように、国境の障壁がある今でこそ、生産拠点の海外移転なんて手間のかかることをしているけれど、労働者の移動が自由になれば国内の既存設備をそのまま使って低コストで稼働させることができる。日本人の失業率を犠牲にするだけのことだ。その頃には、日用品に流行とか最新とかいう贅沢な価値概念はいらなくなっているので、設備更新のサイクルは延びている。資本力よりも労働力調達の差が優劣を決める時代になるだろう。産業空洞化くらいに気を遣っていた二〇世紀末の経営者は、まだ幸せな井の中の蛙だった。
映画や音楽というソフト生産のジャンルは既に世界市場に組み込まれている。コンピューターソフト業界も同じである。有能なクリエーターは母国語圏にとどまらず国境を越えて活躍している。そうした才能の離合集散が、目新しいデザインや価値を生み出してソフト産業を牽引していく。
国家あるいは民族の名誉という概念がなくなってしまう中で、世界トップレベルの才能を集められるのは、資本主義におけるタックスヘブン国家のように、創造表現や思想結社への規制を一切なくしたところである。そこでは自ずと国家自体を否定する力が生じるだろうから、次の段階では国家なき自由地域へと変わっていく。極端な話、一つの街区や企業だけでも、そこが生み出す情報価値だけを資産にして独立できる可能性はある。情報で武装した新しい「吉里吉里国」が五〇年後にはあちこちに生まれ、既存国家をあざ笑っていることだろう。
ピンからキリまで、どんな経済レベルの社会でも不可欠な産業が風俗産業だったが、中途半端な趣向でごまかす高級飲み屋は衰退するだけだ。そんな手間をかけるより、情報端末やクスリを用いた密室の想像力のほうがお手軽である。そうすると女の失業者が増えるのだが、夫婦なき時代の必須需要を満たさないといけないから、もろにセックスを供給する風俗産業だけはしっかりと生き残るだろう。男性向けと女性向けの市場規模はほとんど差がなくなるということと、エイズ事故保険が料金に組み込まれるだろうということを蛇足ながら付け加えておく。
《消費水準の低下》
五〇年後の衣食住は今よりつましくなる。殖える人口に対応するために、資源をあまり使わずに安くできて、メンテナンスフリーで、耐久性のある商品が主流となり、贅沢品は反発を受ける。決して手に入らないものには憧れももちようがない。
ファッション程度で個性が表せると思っていた二〇世紀末の思想は穏健だった。どうやって食っていくかで個性が表れる時代にはそんなゆとりはないのだ。赤道直下でもアラスカでもTシャツとGパンとジャージの系統になり民族色は消える。「何十年代風」という古着ブームばかりが、相変わらず繰り返されるので、デザイナーの出番はない。
高級嗜好品は、一部の趣味人だけのものとなる。山海の珍味というのは、素材の産地や調理法についての蘊蓄があって、少なくとも自分なりに想像できる体験があって、はじめて賞味できるものである。何だかわからなければ、トロも尾の身も生うにも不気味な食べ物だ。食糧危機が迫る頃には、毎日コーンやポテトやハンバーグばかり食べてても幸せだと思うくらい、感性が鈍り耐性が高まっているだろう。
人口増で最低限の住環境の保障が課題となるが、建材の高騰で新築が難しくなるから、既存家屋を補修して使うしかない。鉄筋コンクリートは百年もつという理論にすがって、躯体を壊さず内装だけやりかえて住み続ける。香港の九龍城解体はもったいないことをした。自分が住む住宅なら量販店からキットを買ってきて勝手に組み立てればいい。それで文句をつけられないようなスラムがあちこちにできる。段ボールハウスとの区別があいまいだから、建築基準法では管理できない。定職がないので立退き要求から縄張りを守る暇もある。新宿の「ホームレス」たちは追い出されたが、神戸では震災後一年以上そうして暮らしてる家族があちこちにいる。
《高まる失業率》
南側諸国の人口爆発、および貧困と政情不安に対して、北側は人道的な立場から彼らの労働移民を認めざるを得なくなる。自国の完全雇用を第一に考えてきた先進国のエゴはもう通用しない。
最貧地域から出てきた移民一世は、非熟練単純労働についてぎりぎりで家族を養う。しかし、北側の子供たちと同じ教育を受けた彼らの子供たちの中から、競争に勝ち抜いたエリートが育ってくる二〇年後には、さっそく労働市場の主人公が交代してしまう。サービスを受ける側にとってみれば、誰の手で行われるサービスであっても、安くて気持ちよければそれでいいのである。資産に価値のない時代、民族間の力関係はたった一世代で逆転する。
そんな中でも弱者保護の理念からワーク・シェアリングが叫ばれ、障害者や少数民族や高齢者に優先的に仕事の機会が分け与えられる。女性か老人しか教員になれないとか、外国人しか警察官になれないとか、障害者しか医師になれないというふうに、国家資格のいる職種はハンデキャップのある人たちだけのものになる。健康な若い奴は彼らにしかできない肉体労働でがんばればいい。こんなご立派な倫理観と心中する国があってもいい。
そこまでのかなり早い段階で、年功序列、終身雇用という愛すべき日本的雇用慣行は崩壊する。大半の企業は、既存のサービスニーズのスキマを狙った一発勝負の泡沫企業になっているから、いつ潰れるかわからない。失業保険は今の健康保険みたいに誰もがお世話になる制度となり、保険料もそれに合わせて一〇倍に跳ね上がるはずだ。
《右下がりの経済》
手持ちのお金を将来までねかせておけば、より高い価値が手に入れられるというアテはない。未来の豊かな生活を諦めた人々は刹那的判断をする。金利をいくら上げても貯蓄や投資に関心は戻らない。
借り手ならいくらでもいるが、みんな個人破産を恐れないような奴らばかりなので、サラ金さえも店をたたむ。困ったことだがしかたない。
超インフレ債務国が全部破産宣言してしまい、債権大国だった日本の円は暴落する。円もドルもペソも同じ程度の怪しさとなる。
土地も株も上がらない。どんな資産を抱えていても不労所得は期待できない。治安が悪化するので生産設備や資源、食料などの現物を持っていることには危険がつきまとう。だから、警備料や保険料が跳ね上がる。生き残った巨大資本の末裔は地下に潜って行方をくらませる。
安定した大企業なんてないから、誰も安心して投資できない。情報通信が徹底的に安価に普及すると、管理スタッフの膨らんだ大組織は自分の重さを支えきれない。情け無用の自由競争のもと、ノウハウを盗んで分離独立した身軽な小組織が短期的に儲けるが、そこもまた長続きしない。
小売業界が自分で仕組んだ「価格破壊」の結果、商品にまつわる幻想が剥ぎ取られ、高級志向が消滅し、消費者物価は二度と上げられなくなる。売上げが低迷して所得が伸びないから、安いものしか買えないし売れない。
何といってももっとも価値が下がるのは、美術品骨董品の類いである。残すべき次の世代がいないので、骨董品は本質的に存在意義を失う。再び明治維新の頃の浮世絵みたいな紙くずに戻るだろう。
《福祉および年金制度の破綻》
公的年金制度は少子化で保険料収入が減るから、大幅に支給額が圧縮されるか、あるいは支給開始が九〇歳からになる。年金をあてにして生活できないから、企業は定年を設定することが禁止され、立って歩けるうちは自分で稼がねばならなくなる。その分また若者の失業率が高くなり保険料収入が減って、年金制度は麻痺してしまう。
年金だけでなく老人医療も保育所も障害者介護施設も、財政が破綻した国家に運営能力はないから民営化され、個人契約した者だけを対象とするものとなる。福祉施設が削減されても、幸いオヤジ連中が失業中で家にいるから、介護も育児も自力でやれないことはない。
隠居生活を送りたければ、自分で民間の生命保険会社と年金契約を結ぶ必要がある。ただし、民間企業だから、倒産したら積立はパーになる。国家は口出しも手助けもしない。運よくつぶれない企業を選べた者だけが賭け金を取り戻せる、一種の宝くじのような年金制度である。五〇歳台までの指定の年齢で給付金を先取りして、それ以後は逆に生きてる限り保険料を払って返済していくという「逆年金」制度も登場する。その場合は早死にが絶対有利である。
生産能力のない者、例えばリタイアした老人、子供、病人、障害者などを扶養する義務を、際限なく社会全体に薄めて広げてしまった国家福祉の考え方は成り立たなくなる。生存のチャンスを求めて人々は世界中を流浪する。人種や民族と無関係に身近な仲間たちと協力し合わなければならないが、その範囲を越えたところへは同胞意識が広がらない。個人の生存権を国家に頼ってもしかたないから、周りの仲間たちに担保してもらわなければならない。仲間が苦労していれば、可哀相と思って身銭を切って助けるだろう。スラムの長屋の近所づきあいだ。仲間を作れないような奴はあきらめるしかない。民間保険会社もリスクの高い者は始めから相手にしてくれないのだから。
制度の問題よりも重要なのは、倫理観の変化である。長生きが必ずしも幸せではないという認識が、親子三世代に共有されたらどうなるだろう。きっと、命はお金に換えられないという思いが定着するはずだ。今あなたが考えているのとは逆の意味でね。
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《少子型社会と多産型社会の混在》
先進国の女性の選んだ少子化の流れに拍車がかかり、途上国の高学歴女性もそれに習う。生涯単身を通すか、産んでもせいぜい一人か二人である。自分のことはさておいて、誰でも一般論としては少子型社会ではまずいと思うので、児童手当をアップして出産を奨励することに異存はない。
たった一人のチャンスだから、性別や先天性障害は慎重にチェックされ、育て甲斐のある可愛い女の子が選ばれる。一人に絞るのはすでに生命を選別していることなので「授かりもの」なんて受け身の発想はない。
子供のファッションや教育には、ますますお金が注ぎ込まれ、ピカピカに飾り立てて親のペットみたいにして連れ回す。小さいうちはいいけれど、物心つくころには子供の要求に振り回されて、親が子にかしずくことになる。そんな、いつまでも親に頼るような可愛い子供が母親の好みなのである。
そんな先進国のひ弱な一人っ子は、途上国系の多産型社会で鍛え上げられた十人兄弟たちに、学校でも職場でも完膚なきまで打ちのめされる。泣いて家に戻って、頭をなでてもらっても、その子を最後にお家断絶である。
強権的に一人っ子政策をとってきた中国では、戸籍に載せられない二番目以下の子供たちが成長し、パスポートなしに国境を越えシベリアやモンゴルや日本にやってくる。本国の家族はそんな兄弟も一生懸命支援するから、彼らは新しい華僑として育っていく。多産型淘汰社会のほうが、少子型過保護社会よりも、絶対数ではずっと多くのエリートを生み出す。中国経済全体が高度成長しない限り、一人っ子政策は浸透しない。こいつは絶対不可能だ。
《教育の限界》
先進国の中でも都市のスラムでは、子供を次々と生みっぱなしにして養育を社会福祉に押しつけて逃亡する親(母親)が後を絶たなくなり、情緒不安定な子供が増えていく。彼らは、差別や犯罪の加害者または被害者のどちらにもなる可能性が高い。公立学校は、彼らを含めてあらゆる民族や社会階級の児童に開放されているので、校内暴力やいじめが後を断たない。
公立校に通わせるのが不安な親たちは、入学資格の審査が厳しい私立校に通わせる。授業料が高いほど安心できる。私立校では、社会の役に立つかどうかは無関係に、音楽やスポーツなど親が憧れていたことをカリキュラムにして、目先の変わった営業方針で生徒を集める。
雇用機会確保のため、教員免許は幼稚園の先生から大学教授まで、すべて女性かあるいは六〇歳以上の男に限定される。ただし希望者が多いので賃金待遇は上がらない。ひよわな教員が校内暴力から自衛するために、何かあるとすぐに警察を介入させて取り締まり、懲役を含めた実刑で臨む。すでに教育は義務ではなくなっているから、ヤバイと思った親は子供を通学させなくても構わない。
偏差値の高い子が大企業に入れた過去のシステムは、企業の序列が混乱した超不況社会では無意味である。技能を持たない高学歴者ほど失業率が高い。普通科の高校は廃止になり、中学校から実業教育コースに分かれ、優秀な者から就職のチャンスが得られる。
カリキュラムは、民族が混在した状況に対応したものになる。白人、黒人、黄色人がいつも揃って出てくるアメリカの教科書のイラストが、世界共通で使われるようになる。国語なんてものは何種類も選択肢があるし、歴史物語にも裏や表が何とおりもある。これからどうなるのかという不安に応える実学が重視され、歴史や古典や経済学よりも、地球環境の現状を知るための科学データのテキストが世界中で必須科目になる。
家庭教育のレベルでは、消費水準の低下に対応できる生活技術が必要になるのに、親が覚えてもいないことを復元して教育するわけにはいかないので困ったことになる。たとえば、食べられる山菜の見分け方とか、野菜の蒔き時とか、衣服の仕立直しとか、薪で風呂を焚くとか。貴重な伝承が消えて、一から試行錯誤のやり直しだ。
《子供が政治権力を握る》
子供世代が、生存権・環境権に基づいて、親と祖父の世代を告発する集団訴訟がスタートする。
たとえば、ついにまともに稼働しなかった原子力発電所や核廃棄物の最終処分の責任を巡って、それを発案した世代と漫然と認めていた世代がともに槍玉に上げられる。子孫たちは何の恩恵も受けていないから、被害の立証は簡単だ。こんな問題は数え上げればいくらでもある。国家行政を敵に見立てて、原告数千万人単位の裁判が相次ぐ。
後世のためを思ってやりましたという弁護は、子供の利権を代表する弁護士にやりこめられる。長期戦になるほど原告が年齢的にも組織数でも成長して力を増していくので、早く和解しないと不利である。世代間での補償方法として、老齢年金給付の圧縮という行政決着がはかられる。その程度の金銭的補償では本質的な解決には程遠いのだが。
勝てる見込みのある「子供の権利」の裁判を最初に仕組んで、原告を組織したのは、大人の弁護士やブローカーだったが、若手国会議員が人気取りで力を貸すようになると、雪崩をうって力関係が変わる。選挙権は一〇歳にまで引き下げられ、逆に六〇歳以上からは剥奪される。
結果的には有権者平均レベルの知識や経験が低下することになるが、このほうが民主主義の本質に近いのかもしれない。
《家庭がなくなる》
深刻な不況によるリストラで、これまで男が固定的に確保してきた組織管理的なポストは消えてしまう。多様なサービス・ニーズに対して臨機応変にこたえられる技能を身に付けている者だけが日々の仕事にありつける。その結果、男と女の所得差はほとんどなくなる。これまでも、途上国のスラムでは女の活躍が目立っていた。
生計の点でもセックスの点でも、夫婦関係がいつまでも固定している必然性はなくなる。その上、不動産や資産の相続にもメリットがなくなり、家系の継続は決定的に意味をなくす。役所の住民管理も企業の顧客管理もIDコード一本になるので、本人の区別がつきさえすれば通称の方は夫婦別姓はおろか子供でも姓や名前を自由に選べるし、いつでも変更していい。
夫婦という形を選ぶにしても、ペアは永続的なものでなく、年齢とともに変わり行く自分の実力と考え方に合わせて配偶者を変えていける。ホモやレズやフリーセックスやハレムや禁欲主義の集団が、家族に代わる実質的な帰属単位になる。そのひとつに古典的一家団欒を愛好する一派があるということである。五〇年後に残る可能性が高い家族形態は、母系制家族である。娘が結婚しなくなるので、直系の女だけの家族となる。
住居形態も変わる。家族成員が多いスラムでは、便所や風呂や台所や庭を共用するので、一戸当たりの面積は狭くてすむ。家族をもたない者も一般にワンルームあれば十分である。過密都市には、ひととおり公共施設が揃っているので、食卓やダブルベットが必要な時は、外の有料サービスを使えばいいのだ。低所得者用には飯場形式のザコ寝の共同宿舎が作られる。難民受入れの仮設住宅も兼用である。従来のnDK形式の住宅だからといって家族が住むとは限らない。一部屋に数人ずづ行き当たりばったりの共同生活だ。大家や不動産屋が外人・ホモお断わりなんて客を選ぶのは許されなくなる。
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これまで延々と展開してきた五〇年後の社会は、消費経済が衰退し窮屈で息苦しくなっているとはいえ、全般的には静かな黄昏時のようなイメージを与えたかもしれない。人々が皆、冷静に自己防衛的に振る舞えるならば、細く長く生きていく方法にそのうち気がつくかもしれない。百年後に破局が訪れるなどと、私が変な教祖みたいなことを言う必要はないわけだ。
未来を楽観的に考える人たちは、教育と治安が充実した平和な社会の夢を描くのだろう。ところが私は、教育や治安の緩慢な進歩を追い越して、犯罪が頻発する社会になると信じている。未来への絶望は、あるいは絶望の予感だけでも、人は自暴自棄になりうる。自分の存在を反社会的行為で表現するしかないと思い込む者が相次いで現れ、彼らの行為を思想表現のひとつだと認めてしまう脳天気な相対主義も蔓延するだろう。守るべき子供も、家族も、イデオロギーも、名誉も、神への誓いも、もちろん財産もないとなれば、私だって何をしでかすかわかったもんじゃない。
人類の滅亡はひょっとしたら、空想好きの女子中学生がインターネットのいたずらで発信した架空の不倫の密告が原発管理者の家庭に紛れ込んだことがきっかけになるかもしれない。そんな可能性が十年ごとにべき乗になると、私は信じている。
次に、いくつかの犯罪のパターンを考えてみたが、その気になれば悪いことのネタはいっぱいあるものだ。メモをつくりはじめてから新聞を読んでみて、先を越されたものや二番煎じだったものは悔しかった。事実はいつも想像を越えている。こんなことを言ってても、私は決して劇場型犯罪を待ち望んでいるわけではないことを予め弁解しておく。
不条理犯 動機のない犯罪。自分で自分の行為を説明できない。それまで精神的に安定していた人が突然犯行に及び、その後何もなかったようにまた普通の人に戻る。その犯行自体は覚えているが、まるで他人事のように面倒くさそうに証拠隠滅をする。
無気力犯 急に自分の立場がどうでもよくなって、責任感から遊離する。やってしまったことから逃げも隠れもしないが、反省もしない。バスの運転手がこうなったら怖いが、かつての「逆噴射」は実例。金融機関の管理職が、適当にハンコを押し始めるのも危険。
愉快犯 グリコ森永犯がこれまでのホームラン王。今後は、裏金さえ要求しない純粋な愉快犯が登場するだろう。たとえば警察に予告した上で、個別の中傷の目的もなく差別落書きをするなど、世間のタテマエに泥を塗って喜ぶやり方。マスコミは彼らの共犯者である。
老人誘拐 ボケたり寝たきりになったりした老人を誘拐して、家族に身代金を要求する。子供の誘拐ほど騒がれない。これが流行ると、残された家族の心理を推しはかって、最も不安を抱くのが当の老人自身である。遺産は全て身代金保険に積み立てられる。
養育放棄 小中学生の子供を多額の借金ごと家に残して両親が別々に逃亡する。狂言でないから誰も助けてくれない。小学生くらいになれば役に立つ子かどうか見極められてしまう。上手に甘えとかないと母親でも油断ならない。子供にとっては恐怖である。
少年犯罪 第三者の大人が黒幕になり、陰で巧妙に少年を操った犯罪。僅かの利益誘導で少年に犯行を代行させる。パクられても少年法で実刑がないので、気楽にやらせられる。脅されたと言わせたらもっと安心。味をしめて自分でやり出す子供も現れる。
売春と恐喝 雇用危機で就職難が進むと、大卒女子がエリートの妾になるのも立派な就職になる。一生懸命自分を磨いて売り込むのだ。そこそこ貢がせてから一転して相手を恐喝すれば二度絞れる。最後は家庭観を巡って本妻と女同士の闘争だな。
毒ガスオタク 押し入れの中でサリンができるようになる。パソコン通信で化学や薬学の専門知識を仕入れて、同好の士と競い合ってオリジナルの生物化学兵器を試作する。ときどき、こっそり実験してみたりするが、単なる趣味なので悪気はない。
ゴミ不法投棄 処理場が満杯で受入条件が厳しくなるのにつけこんで、生ゴミや屎尿や瓦礫や廃車をヤミ価格で引取って、よその家の庭に投げ込む。車ごと路上で燃やす。やばい核廃棄物や毒物は船でこっそり外洋に持ち出し、船員ごと偽造事故で沈めてしまう。
環境ジャック ヤンバルクイナみたいな絶滅希少動物を人質にとって、環境保護団体をユスる。当然彼らに金はないが、非常事態として国家に出させる説得役だ。琵琶湖にPCBや水銀を撒くなんてのもかなり怖い。意外と切羽詰まった環境保護派の狂言かもしれない。
企業内部スパイ 大企業や官僚は、終身雇用の鉄則を看板にしてエリートを青田買いする。その家族主義的慣習を破り、自社の談合などの組織悪を市民団体にタレこみ、ジャーナリズム的正義と組織内規範を衝突させる。クビにできない幹部や御用組合をせせら笑う。
誘発犯罪 例えば阪神大震災の日に東京でサリンをまく。それを横目に現金輸送車から五億円奪い、毒入りチョコレートを店頭に置き、シャンボ機を乗っ取り、新聞社に猟銃を撃ち込む。脈絡がないから、捜査もマスコミの取材もパニックになる。それぞれの犯行を計画している奴は、いつでもできるように準備しておいて、警備体制がよそに集中した瞬間に実行しなければならない。混乱に乗じて衝動的犯行も誘発しだしたらもう止まらない。それにしても、阪神大震災当日の早朝に、三宮の倒壊したデパートに宝石を盗みに入った奴の行動力には恐れ入った。
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『もしインターネットが世界を変えるとしたら』 粉川哲夫
日本中・世界中から、自分と同じ興味をもっている奴を見つけ出す可能性を秘めた、パソコン通信、インターネットなるものを、いつかこっそり夜中の楽しみに始めようと思っているうちに、昼間のビジネスの世界のほうにさっさと追い越されてしまって、会社のLAN構築に駆けずり回らされることになった。
自分じゃ手が出ないような高価なマシンをあてがってもらうのは実際ありがたいことだけれど、触っているうちに「会社のご恩」も忘れ果て、ますます企業組織をナメる結果になってしまった。真面目な顔してカチャカチャとキーボード叩いてりゃ、なにやってるんだか誰にもわかりはしない。煩雑な日常業務の処理速度は確かに向上しているので、そのスキルアップのおまけとして労働コストよりはるかに安い通信インフラをプライベートに使わせていただいてもさほど気は咎めないのである。
勤務中にプライベートな思考を巡らすな、という労務管理は非現実的なものであるが、今では、机の上からオープンなネットワークを経由して、反会社的なメッセージを送信することだって容易にできる。自分の携帯電話につないでモバイル環境で発信すれば、通信の痕跡すら残らない。
パソコンは仕事を効率化するための道具だと相変わらず思っている管理職連中は、社内のLANがインターネットにつながることの本質的な意味に気づいていない。そのくせ、たいした企業秘密もないくせにウイルス感染がどうのこうのと、セキュリティー問題ばかりに神経質になっている。その程度のほうが、私たちにとっては好都合であるが・・。
『もしインターネットが世界を変えるとしたら』粉川哲夫(一九九六年)では、インターネットの可能性に関するクールな認識を与えられた。特に「デジタロン物語」には、最近私が試みた未来論と重なる部分があって刺激的だった。とりあえず、気になった箇所の指摘をしておこう。
「情報化の行き着くところとして、信号を直接神経回路に流す電子中毒パンクが登場する」という説には同感である。意外と早くそうなるだろう。しかし、その後に続く「人工臓器による永世技術」および「頭脳メモリのバージョンアップ」という説には異論がある。一定レベル以上の精密機械は、それが小さければ小さいほど製造に莫大なエネルギーを要するようになるので、資源(結局は化石燃料)の制約による限界に突き当たるのである。
エネルギー問題は一例にすぎない。「いまよりましな時代がくることを信じさせるための未来論」は二一世紀を待たずとも、既に今でも見捨てられている。たとえ記憶をクリアする技術が確立しても、長く生きていたいなんて誰も思わないようになるだろう。
「空中電波がストレスや体調不振の原因になるので公害として規制される」という予測について。危ないんじゃないかなという直感は私にもあるけれど、それを公害と呼べるかどうかには疑問がある。電磁波の被害を予見して調べている人はたくさんいるはずなのに、未だに誰も有意なデータを示せていない。昔の企業公害の反対闘争なら、発生源調査に露骨な干渉があったわけだが、パソコンや携帯電話の被害なんてのは誰でも何度でも再現できる容易な研究対象のはずである。
それでも証明できないところをみると、ストレスは電磁波のせいじゃなくて、無理矢理そんな機器を使わせられている情報化社会の労働様式が、それ耐えられない人間だけに発現した現代病なのである。これが「公害」なら、被害者の体質が左右するアトピーも「公害」の一種と言ってよい。
たとえ広範な電磁波不安の世論があったとしても、それにかわる安全で巨大な光ファイバー通信網を構築するほどの財政力が、国家にはもうない。細かな話をすれば、企業でOLが要求すれば福利厚生費で買ってもらえる一万円程度のパソコンフィルターや電磁波防護エプロンだって、自宅で延々テレビを見てる我が子のために自前で買ってやろうと思う親はいない。他人に責任を問う機会は逃さないが、危険と裏腹の便利さを自分から捨てようとは思わないものである。
今日、焦眉の課題となっている高齢者福祉の諸課題についても、マルチメディアを現場に応用しようというプロジェクトが各種華々しく宣伝されている。もっぱら独り暮らしの老人の安否を遠隔監視するための省力化システムであるが、一方的な機械監視でなく通信の双方向性を確保できるところがマルチメディアの意義であろう。
マルチメディアによるコミュニケーションの当面の目標は、最新の知的刺激を外界に求めることにあるから、既に自己流で長生きしてきた老人たちが安静を確保して健康を維持しようとする発想とは相容れないのではなかろうか。
通信技術に最も縁の薄い老人世代は、むしろ近親者によるハイタッチなコミュニケーションを求めているはずだ。先端通信技術と老人福祉は、しょせんミスマッチだと私は思う。独居老人にインターネット端末を配ったら、そこに氾濫する怪しげなコンテンツを見るたびに末法の世を儚なんで、寿命が短くなるだけである。
それがねらいならそれでもよいが・・。
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前作『いい日旅立ち』(一九九六年)の最終章「犯罪の頻発」で、私は以下のように五〇年後の社会を予測した。
「人類の滅亡はひょっとしたら、空想好きの女子中学生がインターネットのいたずらで発信した架空の不倫の密告が原発管理者の家庭に紛れ込んだことがきっかけになるかもしれない。そんな可能性が十年ごとにべき乗になると、私は信じている。
次に、いくつかの犯罪のパターンを考えてみたが、その気になれば悪いことのネタはいっぱいあるものだ。メモをつくりはじめてから新聞を読んでみて、先を越されたものや二番煎じだったものは悔しかった。事実はいつも想像を越えている。こんなことを言ってても、私は決して劇場型犯罪を待ち望んでいるわけではないことを予め弁解しておく。(以下抜粋)
不条理犯 動機のない犯罪。自分で自分の行為を説明できない。それまで精神的に安定していた人が突然犯行に及び、その後何もなかったようにまた普通の人に戻る。その犯行自体は覚えているが、まるで他人事のように面倒くさそうに証拠隠滅をする。
愉快犯 グリコ森永犯がこれまでのホームラン王。今後は、裏金さえ要求しない純粋な愉快犯が登場するだろう。たとえば警察に予告した上で、個別の中傷の目的もなく差別落書きをするなど、世間のタテマエに泥を塗って喜ぶやり方。マスコミは彼らの共犯者である。
誘発犯罪 例えば阪神大震災の日に東京でサリンをまく。それを横目に現金輸送車から五億円奪い、毒入りチョコレートを店頭に置き、ジャンボ機を乗っ取り、新聞社に猟銃を撃ち込む。脈絡がないから、捜査もマスコミの取材もパニックになる。それぞれの犯行を計画している奴は、いつでもできるように準備しておいて、警備体制がよそに集中した瞬間に実行しなければならない。混乱に乗じて衝動的犯行も誘発しだしたらもう止まらない。」
また、オウムの坂本弁護士一家殺害に関してこうも書いた。
「一般に都市の密室拉致事件は、容易に完全犯罪にできるということなのだ。ターゲットよりも少し多い人数で仕掛ければ、そして共犯者の口が固ければ、殺人は難しいことではない。殺すだけなら小中学生でもできるけれど、子供は車が運転できないから自制しているだけである。」
犯罪発生の予想が当たったからと喜ぶのは、無責任の極みである。
私は、五〇年先を予測するつもりだったのだから、そのうちの一部が一年やそこらで現実化したからといって、基本的な認識のフレームが変わりはしない。それでも一九九七年の社会ニュースを代表する、神戸市須磨区中学三年生「酒鬼薔薇」くんの、連続幼児殺害事件については忘れぬうちにおさらいしておかねばならない。
昼間のワイドショーも「フォーカス」も見ない私の情報源は、もっぱら朝飯時の一〇分間の朝日新聞走り読みとNHKニュース、あとは帰りの電車で他人が広げてる夕刊紙の見出しを覗くくらいなので、細かな事件報道はすっ飛んでしまう。そういえば最初にこの事件を知ったのは、大阪駅のキオスクに並ぶスポーツ紙の大見出し「校門に生首」というやつだった。翌朝、自宅の新聞を手に取るまでは、まさかその名コピーが「直喩」だとは思わなかった。
さっそく私は前言の一部を撤回しなければならない。車を運転できない少年でもちゃんと人を殺せたじゃないか。自分でひきずれる体重のターゲットを吟味して、本人を現場まで歩いて来させて、後始末は鋸で切断する。教師や親が教えなくても、計画力のある少年なら人の殺し方くらい考えついたのだった。
この事件の責任の所在を巡って、少年の親や教育現場を責めたてる口調は、どれだけ興奮していてもシラジラしさが透けて見える。どこで起きても不思議のないことが、たまたまある場所で起きたからといって、その関係者の背景ばかり無闇に詮索しても始まらない。コトバにできないレベルでは、たいていの親は自分の子供が信じられなくて怯えているのだから、本気で人のことをあげつらうわけにはいかないのだ。
これを機に少年法を改正せよとの議論が起こった。私も未成年凶悪犯は厳罰に処すべきと思っているし、さらには親も連座制で処罰しなければ抑制効果は生まれないと思う。一人のイタズラ少年の更正のために少年院に社会コストをつぎ込むなんてことは無駄の骨頂である。救いの必要な連中は他にもたくさんいるのじゃなかったか。
少年の顔写真公開の是非をめぐる議論も白熱したけれど、しょせん大衆のノゾキ趣味に追従しているだけである。心から矛盾を楽しみつつ妙に本質を隠して捻れた議論をしてるのが面白かったが、本気で誘発犯罪を防ぐつもりなら強引に最後まで一切の報道を規制し続ければいいだろうし、マスコミの自主規制がナンセンスというなら「週刊新潮」と「フォーカス」以外全部不買運動でもすればよいだろう。
酒鬼薔薇少年が、兵庫県警に出した挑戦状を見る限り、たくさん本を読んでコトバを覚え、フィクションなりにスジの通った文章を書ける賢い子供のようだった。あれを読んで中年男性と当て推量していたアホな社会心理学者および私ら大衆の言語能力は明らかに彼より劣っていた。実践面でも、幼女から順に試した一連の作戦は手際がよく、失敗した日に日記に反省を綴るほどに前向きな姿勢を備えていた。
タンク山での最後の作戦は、自分の通う中学校の教師へのパフォーマンスが目的だった。それまでの二件の幼女殺しがほとんど完全犯罪だったので、一気に勝負に出ようとしたのだろう。顔見知りの地元の障碍児を血祭りにあげ「校門に生首」を置いた時、彼は自分が捕まって吊されることをはっきりと自覚していた。それなのに、意外にもしばらく泳がされてしまったので、警察への挑戦状なんてことを思いついたあげく、マスコミや大衆に大受けする劇場型犯罪パターンに展開してしまったのである。もしも、彼がもう少しせっかちな性格で、短時間にコトを繰り返そうとしていたら、犯行声明直後に警備網をかいくぐって近所エリアで続編を実行する実力は十分あった。
吊されることを覚悟しながらも、自分の守護神のために生け贄を捧げようとした酒鬼薔薇の思想は、オウム真理教の一途さと似たところがあるが、かたや軍事組織と、子供の一匹狼では意味が違う。どんなシナリオも彼の頭の中だけで完結した単独犯行であった。先掲の犯罪タイプでは「不条理犯」と「愉快犯」の両方の性格を併せもっていて、自分の行為を振り返って動揺する素振りはなかった。
同じ時期に関西で騒がれていた奈良県月ヶ瀬村の中学二年少女失踪事件の容疑者 丘崎誠人(二五歳)が、殺人死体遺棄容疑で逮捕される前に「酒鬼薔薇はカッコい」と誉めていたのをその友人が聞いている。まさか丘崎も、酒鬼薔薇が自分が手にかけたのと同じ中学生だったとは思いもしなかっただろう。酒鬼薔薇の「校門生首挑戦状」よりも、丘崎の殺人のほうが二〇日ばかり先行していたけれど、彼がもう一ヶ月実行を遅らせていたら、師匠格の酒鬼薔薇に習って、別の手口になったかもしれない。ここには誘発犯罪の可能性が十分あった。
酒鬼薔薇事件のフィーバーぶりに較べれば、犯行声明のないよくある単発の殺人死体遺棄に過ぎない月ヶ瀬村事件はインパクトに欠けていた。しかし、彼のケースの怖さは、こんな兄ちゃんなら日本中どこにでもいるという不気味さである。二五歳は車を持っている。4WDを使えば、死体遺棄にほとんど汗をかかないですむ。辺鄙な山中に捨ててくれば、何千人で山狩りしても相当時間をかせげる。すぐに面がわれるご近所でなく、遠くの町の行きずりのターゲットを狙って同じようなコトを起こしていたら、捕まる可能性は極めて低かった。
丘崎は、逮捕時にふてぶてしくシラをきっていたのに、現場検証ではおきまりの反省の涙を流すフツーの感覚の青年である。酒鬼薔薇が犯罪史上の嚆矢なら、丘崎青年はそのはるか裾野の一人であった。
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