06.05.06〜
○「間違いだらけのクルマ選び」の読み方 その1 いよいよ「個人の趣味」と笑い飛ばしてもらえる領域を越えたテーマである。 「間違いだらけのクルマ選び」、ご存知・自動車評論の大家・徳大寺有恒氏のライフワークとも言うべき書籍。 そんなわけで、自分は初版からこの本を読んでいるわけではない。 初版発売時には社会現象となり、その辛口な内容や著者のアクの強さから様々なメディアで取り上げられ続けている。 氏の評論に絶大なる信頼を寄せる人たちがいる。 自分はどうだったろうか。 20代の頃はクルマの話題でありさえすればおもしろかった。 30代になってから − この間、レガシィが気に入っていたこと、最初から長く乗るつもりだったことなどが手伝ってか、クルマの本を手にする機会が減った時期がある。 そういう時でもこの「クルマ選び」だけは買い続けた。 クルマ好きの人は誰でもそうだと思うが、買う買わないは別として、気になる新型車が出ればその情報が欲しくなる。 だがこの「クルマ選び」は、情報源としてはあまりいい本ではない。 だから気になるクルマについては、他にもいろいろ買いあさることになる。 ではなぜ「クルマ選び」を買い続けたのか? 予想通り、長くなりそうな雲行きだ。 (06.05.14) |
○「間違いだらけのクルマ選び」の読み方 その2 別腹の理由。 いや、「クルマの本でもあるけれど、別の側面も持った本だから」と言ったほうが親切だろう。 クルマの本と、クルマ以外の本。 たとえば話題の新型車が出ると、この本でどう論評されているかが気になる。 そのクルマ自身のことというよりも。 ときには徳大寺氏がそのクルマをどう評するか、予想しながらページをめくることがある。 トヨタBb(先代)の時は予想通りだった。 それにしても、なぜ徳大寺氏の評価が気になるのだろうか? それは「徳大寺氏のことが気になるから」に他ならないと思う。 様々なメディアに登場する有名人であるし、この「クルマ選び」の巻頭では必ず、クルマを取り巻く様々な事象に対して、自身の考えを述べている。 自身をさらけ出しての各車評論である。 その意識する著者は、人となりを語る話題には事欠かない人物である。 クルマ情報誌の枠を超えた読み物になる道理である。 徳大寺氏に興味がない、または快く思わない人もいるとは思う。 先に、情報誌としては機能しないという主旨のことを書いたが、徳大寺氏のことを理解した上でなら、話は別である。 氏のようにクルマの歴史に詳しくなかろうが、メカに強くなかろうが、自分のための1台を買って使うのは自分なのだ。 そうやってつきあうことで、読者の中の「クルマを見る目」も養われていく。 そんな本がこの「クルマ選び」だと思う。 (06.05.16) |
○「間違いだらけのクルマ選び」の読み方 その3 さて、自分がいかに「クルマ選び」を愛しているかはおわかりいただけたと思う。
96年版より〜同上 95年中にFTOがモデルチェンジしたわけではない。 徳大寺氏の中で何かが変わったことも。 そして、毎年読んでいる読者は「あれ?」と思わされるのだ。 徳大寺氏は、FTOがクーペ・フィアットの影響を受けていると感じている。 95年版では「恥ずかしいマネ」と言い、96年版では「いいところに目を付けた」と言う。 三菱の立場が思いやられる。 02年夏版より〜プレミオ/アリオン(トヨタ) 04年夏版より〜同上 「わたしに飽きたのね」というプレミオ/アリオンの恨み言が聞こえてきそうである。 FTOの件に関しては徳大寺氏自身は気付いていないかも知れない、という気もする。 自分は外見しか知らないが、トヨタにしては珍しく理想主義的なクルマという印象があった。 普通のクルマの本だったら、これで信用する気を失い、買わなくなるかも知れない。 FTOの件を氏が意識して書いているとすれば、95年版では言い過ぎたと思ったのだろうか。 マネにしてはセンスが良かったFTO。 そんな親心から、トーンを落としたという勘ぐりも出来なくはない。 草思社の「間違いだらけのクルマ選び」は最終刊を迎えたわけだが、徳大寺氏は「クルマ選び」が終わったわけではないと言う。 最近、20年前の「クルマ選び」を読み返し、カバー裏表紙側の綴じ込みにある若かりし頃の氏の写真を見て、時の流れを思い知った。 もうお年なんだからほどほどにしときなさいよ、という気もする。 一方で、未だ氏の一刀両断を受けていないクルマが、まだまだ存在する。 氏がこれらのクルマたちをどう評価するかは、依然として自分の中での大きな関心事だ。 ちなみに、自分はクーペ・フィアットよりFTOの方が数倍カッコいいと思う。 (06.05.20) |
○「間違いだらけのクルマ選び」の読み方 その4 このテーマも延長戦に突入である。 徳大寺氏が、時代の情勢などによって嗜好も変化する等々書いておられたという点について。 原文を読んでいないので、あまりこの表現にこだわってはいけないかも知れない。 しかし、前章のFTOの件、プレミオの件をそれで説明するというなら、気をつけていただきたいことがある。 変わったなら変わったと、はっきり言いなさい。 去年と違うことを書いているのに。 氏の主観がこの本における最大の評価基準だ。 「昨年度版でこう書いたが、撤回する。いま思えばあれは・・・」 失礼を承知で書くが、この点について氏はモータージャーナリストの権能を拡大解釈してはいまいか。 思ったままを書くということは大事なことである。 だが、読者に対する配慮まで排除していいわけはない。 事実は事実、主観は主観できちんと整理して、大なたを振るうのはそのあとでいい。 そういう自分も、このことを氏に直接意見する勇気はない。 「間違いだらけのクルマ選び」が当たったことで、これに近いスタイルの書籍が数多く出版された。 「マガジンX」に「ざ・総括」覆面座談会という連載企画がある。 そう考えると、徳大寺氏のスタイルは大きな意味のあることなのだと、改めて思い知らされる。 (06.05.28) |