06.05.06〜

おれの くるまにあ 02

Answer-くるまにあ

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○「間違いだらけのクルマ選び」の読み方 その1

 いよいよ「個人の趣味」と笑い飛ばしてもらえる領域を越えたテーマである。
 多少、語調が変わるかも知れないが、ご勘弁願いたい。

 「間違いだらけのクルマ選び」、ご存知・自動車評論の大家・徳大寺有恒氏のライフワークとも言うべき書籍。
 先頃最終版が発刊されたところだが、第1版が出たのが30年前だと言うからすごい。
 自分はまだ小学生の頃だ。

 そんなわけで、自分は初版からこの本を読んでいるわけではない。
 最初に買ったのが86年版(85年暮れに発売)、20年前だ。
 だから全体の3分の2ほどは読んでいることになる。

 初版発売時には社会現象となり、その辛口な内容や著者のアクの強さから様々なメディアで取り上げられ続けている。
 たしか2ちゃんねるにも、これ専用の掲示板があったような気がする。
 (この本ではなく徳大寺氏に関してだったか)

 氏の評論に絶大なる信頼を寄せる人たちがいる。
 目をむいて反論する人たちがいる。
 妄信的な擁護論も気持ち悪いし、感情だけで攻撃的に批判するのも見苦しい。
 まあそれだけ影響力があるということか。

 自分はどうだったろうか。

 20代の頃はクルマの話題でありさえすればおもしろかった。
 その中でも有名な本だからと、手に取っていた感なきにしもあらず。

 30代になってから − この間、レガシィが気に入っていたこと、最初から長く乗るつもりだったことなどが手伝ってか、クルマの本を手にする機会が減った時期がある。

 そういう時でもこの「クルマ選び」だけは買い続けた。

 クルマ好きの人は誰でもそうだと思うが、買う買わないは別として、気になる新型車が出ればその情報が欲しくなる。

 だがこの「クルマ選び」は、情報源としてはあまりいい本ではない。
 たかだか250ページの中に国産車のほぼ全て、加えていくつかの外国車も取り上げている。
 主要諸元は省かれるし、写真もだいたい小さく1枚だけ。

 だから気になるクルマについては、他にもいろいろ買いあさることになる。
 モーターファン別冊「○○○のすべて」シリーズは、この用途としては完璧な一冊だ。

 ではなぜ「クルマ選び」を買い続けたのか?
 女性にとってのスウィーツではないが、なぜ「クルマ選び」は別腹なのか?

 予想通り、長くなりそうな雲行きだ。
 その2(以降)では「クルマ選び」別腹の理由と、それでもやっぱりツッコミを入れずにおれない、徳大寺氏の発言の「ぶれ」について書いてみたい。

(06.05.14)

○「間違いだらけのクルマ選び」の読み方 その2

 別腹の理由。
 この「クルマ選び」はタイトルとは裏腹に「クルマの本」ではないからではないか?
 最近そう考え始めている。

 いや、「クルマの本でもあるけれど、別の側面も持った本だから」と言ったほうが親切だろう。

 クルマの本と、クルマ以外の本。
 だから別腹が成立するという論法である。

 たとえば話題の新型車が出ると、この本でどう論評されているかが気になる。
 徳大寺氏がその車をどう見ているかが気になるのである。

 そのクルマ自身のことというよりも。

 ときには徳大寺氏がそのクルマをどう評するか、予想しながらページをめくることがある。

 トヨタBb(先代)の時は予想通りだった。
 (ホンダS−MXからの文脈で)
 まさかの展開は日産キューブ(現行型)の時だった。
 自分にすればどっちも似たような車に見えるのだが、まあ中身が違うといわれればしょうがない。
 (それにしてもこの2車、エクステリアに関してはやはり似たようなもんだと思うのだが、モノは言い様、考え様か。
 ・・・お断りしておくが、2車ともカッコ悪いと言っているわけではない)

 それにしても、なぜ徳大寺氏の評価が気になるのだろうか?

 それは「徳大寺氏のことが気になるから」に他ならないと思う。

 様々なメディアに登場する有名人であるし、この「クルマ選び」の巻頭では必ず、クルマを取り巻く様々な事象に対して、自身の考えを述べている。

 自身をさらけ出しての各車評論である。
 「このクルマに対してこんな評価を、どんな人物が言ってるのか?」
 読み手は当然意識する。

 その意識する著者は、人となりを語る話題には事欠かない人物である。

 クルマ情報誌の枠を超えた読み物になる道理である。

 徳大寺氏に興味がない、または快く思わない人もいるとは思う。
 当然だが、そういう人にはこの本は向かない。
 別腹にもなり得ない。

 先に、情報誌としては機能しないという主旨のことを書いたが、徳大寺氏のことを理解した上でなら、話は別である。
 氏がこう言っているから、自分にとってはこんな感じだろう、という勘所がつかめれば、これはこれで有益な情報が得られる。

 氏のようにクルマの歴史に詳しくなかろうが、メカに強くなかろうが、自分のための1台を買って使うのは自分なのだ。
 卑屈にならず、有益な情報を拾い上げる方法を模索していけばいい。

 そうやってつきあうことで、読者の中の「クルマを見る目」も養われていく。

 そんな本がこの「クルマ選び」だと思う。

(06.05.16)

○「間違いだらけのクルマ選び」の読み方 その3

 さて、自分がいかに「クルマ選び」を愛しているかはおわかりいただけたと思う。
 必然的にこれから展開される批評めいたご託も、その中に愛を感じながら読んでいただけることを信じつつ、いよいよ(?)本題である。


95年版より〜FTO(三菱)
 「(スタイリングが)クーペ・フィアットのパクリとは情けない」

96年版より〜同上
 「クーペフィアットほど洗練されていないが・・・これは相当の目利きの仕事である」

 95年中にFTOがモデルチェンジしたわけではない。
 指摘しているポイントは同じだから、それはおわかりいただけるだろう。

 徳大寺氏の中で何かが変わったことも。

 そして、毎年読んでいる読者は「あれ?」と思わされるのだ。

 徳大寺氏は、FTOがクーペ・フィアットの影響を受けていると感じている。
 それはいい。
 ただ、そこから導き出す結論がほぼ180度変化してしまっているのは、どうとらえればいいのだろう?

 95年版では「恥ずかしいマネ」と言い、96年版では「いいところに目を付けた」と言う。

 三菱の立場が思いやられる。
 あるいは、「自分の上司の言い分がこんなに変わったらイヤだなあ」とも。

02年夏版より〜プレミオ/アリオン(トヨタ)
 「世界的に見てトップクラスのドライバビリティ。すごいクルマが現れたものだ」
 「「おお、なんていいんだ!」と、思わず声に出していたほどだった」

04年夏版より〜同上
 「ワクワクさせるものは何もない」

 「わたしに飽きたのね」というプレミオ/アリオンの恨み言が聞こえてきそうである。
 他のライバルたちもこの2年でずいぶん進歩したということだろうが、それにしても・・・。

 FTOの件に関しては徳大寺氏自身は気付いていないかも知れない、という気もする。
 だがこのプレミオ/アリオンについては「正直、飽きた」と言いたかったのかも知れない。
 クルマ好きが好むクルマではないし、誰も気付かないだろうとばかり、さらりと書き流したようにも見える。

 自分は外見しか知らないが、トヨタにしては珍しく理想主義的なクルマという印象があった。
 02年版の記事でその裏付けを見たような気になっていたから、「どういうこと?」と言いたくなった。

 普通のクルマの本だったら、これで信用する気を失い、買わなくなるかも知れない。
 ところがこれは普通のクルマの本ではないから、「結局どういうのがアンタのお望みなんだ?」という、こだわりにも似た思いが失せない限り読み続けることになる。

 FTOの件を氏が意識して書いているとすれば、95年版では言い過ぎたと思ったのだろうか。

 マネにしてはセンスが良かったFTO。
 この程度のことでバッシングして萎縮させてしまったら、冒険を許さない風潮が増大し、面白味のないクルマばかりになってしまう。
 それは国内メーカーにとって大きすぎるマイナスだ。

 そんな親心から、トーンを落としたという勘ぐりも出来なくはない。

 草思社の「間違いだらけのクルマ選び」は最終刊を迎えたわけだが、徳大寺氏は「クルマ選び」が終わったわけではないと言う。
 クルマ雑誌の連載の中で、出版社を替えて続ける意向を表明している。

 最近、20年前の「クルマ選び」を読み返し、カバー裏表紙側の綴じ込みにある若かりし頃の氏の写真を見て、時の流れを思い知った。
 年令や病気のためか、最新刊の写真などはいかにも老人然とした印象の徳大寺氏。

 もうお年なんだからほどほどにしときなさいよ、という気もする。

 一方で、未だ氏の一刀両断を受けていないクルマが、まだまだ存在する。
 ヴィッツ(2代目)、R−1、ノート、アイシス、フーガ、エッセ、「 i 」・・・

 氏がこれらのクルマたちをどう評価するかは、依然として自分の中での大きな関心事だ。
 まだやめられちゃ困る。
 いつわらざる気持ちである。

 ちなみに、自分はクーペ・フィアットよりFTOの方が数倍カッコいいと思う。
 ただ、ソリッドイエローのクーペ・フィアットの実物を見かけたとき、間近に見るそのボディ表面の豊かな表情には、しばし見とれた事実も白状しておく。

(06.05.20)

○「間違いだらけのクルマ選び」の読み方 その4

 このテーマも延長戦に突入である。
 きっかけを与えてくださったS氏、M氏に感謝申し上げる。

 徳大寺氏が、時代の情勢などによって嗜好も変化する等々書いておられたという点について。

 原文を読んでいないので、あまりこの表現にこだわってはいけないかも知れない。
 たしかに人の好みというものは移り変わる。
 徳大寺氏とて人の子、例外ではないだろう。

 しかし、前章のFTOの件、プレミオの件をそれで説明するというなら、気をつけていただきたいことがある。

 変わったなら変わったと、はっきり言いなさい。

 去年と違うことを書いているのに。
 彼らは何も変わっていないのに。

 氏の主観がこの本における最大の評価基準だ。
 その評価基準が大きくブレたのだ。
 おおやけに出版される本において、それぐらいは当然すべきだろう。

 「昨年度版でこう書いたが、撤回する。いま思えばあれは・・・」

 失礼を承知で書くが、この点について氏はモータージャーナリストの権能を拡大解釈してはいまいか。

 思ったままを書くということは大事なことである。
 そこに、メーカーに対する余計な配慮を差し挟まないというのが、氏の文章の魅力である。

 だが、読者に対する配慮まで排除していいわけはない。
 氏の本を買い、氏に生活の糧を与えているのは読者だということを忘れてはいけない。
 また、氏を信頼する多くのファンの気持ちを考えていただきたい。

 事実は事実、主観は主観できちんと整理して、大なたを振るうのはそのあとでいい。

 そういう自分も、このことを氏に直接意見する勇気はない。
 今述べたことを差し引いても、氏が自動車ジャーナリズムに対して為してきた功績は偉大だ。
 とてもじゃないが太刀打ちできない。
 ただこれからのネット社会では、こうしてアップしただけで いつ誰の目に触れるかわからないという事実がある。
 自分で言ったことは自分に返ってくることも肝に銘じておきたい。

 「間違いだらけのクルマ選び」が当たったことで、これに近いスタイルの書籍が数多く出版された。
 だが「クルマ選び」を越えるものはとうとう出てこなかった。
 当然だと思う。
 他の書籍や企画では、書いている人物の顔が見えないのだ。

 「マガジンX」に「ざ・総括」覆面座談会という連載企画がある。
 これなど、書かれている内容は正確無比なのだろうけど、全く感情移入できない。
 クルマの記事で感情移入というのも違和感があるが、ようは誰が言っているのかわからず、その責任の所在の曖昧さが「うさんくさい」雰囲気につながっているのだと思う。
 (あるいは専門家による、醜い知識のひけらかしのオンパレード、とも)

 そう考えると、徳大寺氏のスタイルは大きな意味のあることなのだと、改めて思い知らされる。
 苦言を呈するとすればいくらでも上げられるが、しかし徳大寺氏の本に対する興味がなくなるということは、当分ないように思われる。
 そして、いつか氏と、クルマ談義をしてみたいとも思う今日この頃である。

(06.05.28)

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