16.ドイツの弾道ロケット「A−4」は世界一ィィ!!

ドイツ軍のロケット兵器開発は1929年から始まったが、これはヴェルサイユ条約によって
長距離砲の保有を禁じられていたことが背景にあった。ドイツは、ロケット兵器を
長距離砲の代替兵器として使用することを考えたのである。
1932年、液体酸素とアルコールを燃料に用いたA−1は失敗に終わったが、
1934年に改良型のA−2がバルト海のボルクム島で試射に成功した。これで
国防省が人や金を出してくれるようになり、1936年にはペーネミュンデに
陸軍と空軍が研究所を設立、本格的に兵器として研究が開始された。
1937年にはジャイロスコープによる姿勢制御を可能としたA−3が作られて試射に成功して、
軍用ロケットとしての見込みが立ち、誘導システムを備えた全備13.6tの本格的な
攻撃用弾道ロケットA−4が設計された。
A−4はDrワルター・ティールのデザインした大推力の液体ロケットを用いた画期的なもので、
70秒間の燃焼によって弾道の頂点に達してエンジンは停止、姿勢を変更して
目標に落下するというものだった。
A−4のテストは1942年6月から始められ、2度の失敗の後、
10月3日のテストでは190qを飛行した。この成功と実戦化は
別物だったが、A−4は同年の暮れにヒトラーの量産承認を受け、
翌年5月にはFi103(V-1)やMe262とともに実戦化に
最高の優先度が与えられた。
その後もA−4はテスト発射を繰り返していたが、1944年6月に
連合軍がノルマンディーに上陸し、フランス深く進行して来たため、
ヒトラーはFi103に続いてA−4の発射に踏み切った。
9月8日、ロンドンに最初の第1発が命中し、年末までに447発の
A−4によってロンドンでは2,754人の死者と6,754人の
負傷者が出ている。
ロンドン以外の都市では、アントワープ:924発、ノーウィッチ:43発、
リエージュ:27発、リレ:25発、パリ:19発、トゥアコン:19発、
マストリヒト:19発、ハセルト:13発、トルネー:9発、アラス:6発、
カンブレー:4発、モンス:3発、ディエスト:2発、イスピッヒ:1発の
数字が伝えられている。また、終戦までにロンドン:1151、
アントワープ:1341、ブリュッセル:65、リエージュ:98、
パリ:15、ルクセンブルク5という説もあり、この説では有名な
レマゲン鉄橋にも11発が射ち込まれたとある。
A−4は、「どんな住民も絶え間ないA−4の爆撃には耐えられまい」とヒトラーが
豪語したように、第2次世界大戦の常識を抜いた兵器で、80%以上の目標到達率を記録し、
マッハ4という高速で飛行するため事実上迎撃は不可能で、その威力から連合軍に大きな
衝撃を与えたが、登場時期が遅かったこともあり、戦局を挽回する兵器とはなり得なかった。
しかし、A−4はドイツが開発した秘密兵器の中で最も成功した存在であり、
その技術とW.フォン・ブラウン博士を筆頭とする多くの人材は、戦後、アメリカ、ソ連の手に渡り、
ICBMの完成、人工衛星の打ち上げ、ひいては月への人類の到達、宇宙間旅行などの
実現の基盤を構築したのである。
弾道ロケット「A−4」(V−2)諸元表 |
全長(m) |
14.04 |
最大直径(m) |
1.65 |
尾翼幅(m) |
3.56 |
自重(s) |
4,000 |
総重量(s) |
12,900
(発射時) |
TNT火薬(s) |
750 |
燃料液搭載量
(s) |
4,173 |
液体酸素搭載量
(s) |
5,533 |
|
離昇時最大推力
(q) |
25,000 |
最大速度
(q/h) |
5,500 |
上昇限界
(m) |
9,600 |
有効射程
(q) |
596 |
生産数 |
5,000 |
製造 |
ドイツ空軍兵器開発局
ツェッペリン社
エルンスト・ハインケル社
ミッテル製作所 ほか |
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〜参考文献〜
『W.W.Uドイツ戦闘兵器の全貌3』戦車マガジン
『グラフィックアクションbQ9 WWUドイツ空・海軍兵器図鑑』文林堂
『戦略戦術兵器事典C【ヨーロッパW.W.U】陸空軍編』学習研究社
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