エースという称号は第1次世界大戦下のフランスで考案されたもので、
10機以上の敵機を撃墜すればエースと認定され、人々の尊敬を集めた。
第2次世界大戦時のドイツにおいては、100機以上撃墜したエースがなんと107人もいた。
ということは10機撃墜のエースは珍しくなく、ドイツ空軍はエースだらけだったに違いない。
今回はその中から特に優れた3人のエースを紹介しよう。
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エーリッヒ・ハルトマン Erich Hartmann
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公認撃墜数352機。これは世界の頂点に立つ記録であり、この驚異的なスコアは、
恐らく今後も塗り替えられることはないだろう。
10代からグライダーによる飛行訓練を受け、38年にはグライダー指導員の資格を取っている。
1940年10月にドイツ空軍に入隊し、第10連隊で戦闘機パイロットの基礎訓練を受けた後、
42年10月10日に第52戦闘航空団の第7飛行中隊に配属され、東部戦線に従軍。
初陣では味方機を敵機と誤認して逃げ回った挙げ句に不時着する、という醜態を演じたが、
次第に実力をつけて頭角をあらわしていく。翌43年7月5日付で第9飛行中隊長代理となり、
9月2日には正式に第9飛行中隊長に就任。10月29日には148機撃墜の功績により
騎士十字章を、44年3月2日には200機撃墜達成により柏葉騎士十字章を、同年7月2日には
239機撃墜に対し剣付柏葉騎士十字章を授章している。
1944年8月25日には戦闘機パイロットとして初の300機撃墜を成し遂げ、
ダイヤモンド剣付柏葉騎士十字章を授章。10月1日付で第4飛行中隊長に就任。
12月1日には第1大隊長に就任している。「ブービー(坊や)」の愛称を持つハルトマンは
前線パイロットとしても仲間から信頼され、大戦を通じて、彼は負傷らしい負傷を負うことなく、
また一人たりとも部下を失っていない。
ドイツが降伏する日まで、愛機メッサーシュミットBf109Gで激戦区を飛び続けたのである。
トップエースという栄光に隠れがちだが、こうしたハルトマンの優秀な軍人としての能力は
決して忘れることができない。
伝説のエース、エーリッヒ・ハルトマン。ソ連空軍から「南部の黒い悪魔」と恐れられたこの
名パイロットの信条は、意外なことに「愛する者のもとへ生きて帰る」ことであった。
敗戦後は戦時捕虜としてソ連の収容所に捕らえられていたが、彼は信念通り55年10月14日、
戦後のドイツへ帰還を果たした。その原動力となったのは、やはり類まれなる才能と
鉄の意志だったのである。
ハルトマンは西ドイツ空軍に在籍し、73年まで現役で活躍していた。
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ゲルハルト・バルクホルン Gerhard Barkhorn
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1937年にドイツ空軍に入隊し、39年に戦闘機パイロットとしての訓練を終了。
第2次大戦が始まると40年に第2戦闘航空団に所属して対英航空戦に従軍。
同年8月には第52戦闘航空団の第6飛行中隊に転属。
西部戦線では1機も撃墜できなかったが、東部戦線における空中戦ではその実力を発揮し、
終戦までに1,100回以上の出撃を行い、301機のソ連機を撃墜し、自分も9回撃墜されている。
エーリッヒ・ハルトマンに次ぐ第2位の撃墜王としてその名を知られている。東部戦線出撃中の
42年3月1日に第4飛行中隊長に就任し、8月23日には59機撃墜の功績によって
騎士十字章を授章。翌43年1月12日には120機撃墜に対し柏葉騎士十字章が授与され、
同年9月には第52戦闘航空団の第2大隊指揮官に就任した。
そのすばらしい撃墜スコアだけでなく、バルクホルンは人間的にも評価が高く、
仲間から高い信頼を受けていた。ドイツでは空軍のみならず陸軍や海軍においても、
指揮官は先頭に立って部下に模範を示した。「エース」とは立派な記録を持つだけでなく、
指導者としても優れた人物を示す言葉だったといっても過言ではない。一時期、彼の部下として
戦ったハルトマンはバルクホルンをこう評価している……
「指揮官として、友達として、仲間として、そして父親として、彼は私が出会った
最高の人間である」。
1945年1月16日には第6戦闘航空団司令官に就任し、4月15日以降は
優れたパイロットで編成された第44ジェット戦闘機集団の飛行小隊長となる。
だが、大戦末期の出撃ではエンジン・トラブルによる不時着で負傷し、病院で敗戦を迎えた。
退院後の45年9月9日に捕虜となり、戦後は西ドイツ空軍に勤務し、少将で退官。
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ハンス・ヨアヒム・マルセイユ Hans−Joachim Marseille
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1938年に空軍に入隊して戦闘機パイロット教育を受け、戦争勃発後の40年8月に
見習い士官として英仏海峡に展開した第2教導航空団に配属された。
同年12月には第52戦闘航空団第4飛行隊(4/JG52)に転属し、その翌年2月には
第27戦闘航空団第3中隊に転属した。この期間にマルセイユは7機を撃墜したが、
一方で彼も6回撃墜されている。
マルセイユがエースとして頭角を現わすのは部隊が北アフリカに進出した後だが、
撃墜スコアを伸ばすのは1942年に入ってからで、同年2月22日には50機撃墜によって
騎士十字章を授章している。
マルセイユの空戦術は他人には真似のできない独特なものだったが、これは優れた操縦能力と
天性の射撃能力によるもので、文字通りの「天才戦闘機パイロット」だった。42年9月1日には、
1日に17機を撃墜(すべて戦闘機)するという奇跡に近い記録をしている。
1942年6月6日には97機撃墜によって柏葉騎士十字章を授与されたが、その直後に
100機撃墜を達成。同月18日には102機撃墜によって剣付柏葉騎士十字章、さらに9月2日には
126機撃墜によってダイヤモンド剣付柏葉騎士十字章を授章するという偉業を立てた。
これによってマルセイユは”アフリカの星”と呼ばれるドイツの英雄となった。とりわけ、女性たちは
若くて容姿端麗なマルセイユに熱狂したという。
1942年9月30日、出撃の際にエンジン・トラブルに遭遇。脱出する際に水平尾翼に激突して
失心し、そのまま墜落死を遂げた。158機というスコアは快挙だが、ドイツ空軍では
ベストテンに入るほどの戦績ではない(第30位)。しかし、その相手が強敵であるイギリス機や
アメリカ機であるという点は特筆に値する。
もしマルセイユが東部戦線でソ連機を相手にしていたなら、少なくとも300機以上は
撃墜していただろうといわれている。
戦後に彼の半生を描いた映画『撃墜王アフリカの星』が57年に製作されている。
〜参考文献〜
『グラフィックアクションbT3 WW2ドイツ軍人プロファイル』
文林堂
『ドイツ空軍エースガイド −撃墜王の横顔−』
新紀元社
『W.W.U ルフトバッフェのエースたち』
戦車マガジン
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