「戦車」といわれる兵器を初めて戦争に使ったのはイギリス軍で、
1916年9月、第1次世界大戦でのことである。
第1次世界大戦に敗れたドイツは、ベルサイユ条約により戦車を保有することが禁止されたが、
ソビエト連邦の協力で戦車戦術などを学んだ。
その甲斐あって、ドイツは戦闘部隊の主力として戦車を運用する軍事理論を確立し、
第2次世界大戦では多くの「戦車エース」を生み出したのである。
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ミヒャエル・ヴィットマン Michael Wittmann
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第1次大戦中に鋼鉄製で全装軌式の、「戦車」と呼ばれる兵器が登場して以来、
その戦車戦史を通して最高の撃破スコアを挙げ、その活躍が今日に至るまでさまざまな研究書で
詳細に語られているトップ・エースがミヒャエル・ヴィットマンである。
ヴィットマンは、1934年に陸軍に入隊し、36年には上等兵として除隊している。その翌年1月には
SS「アドルフ・ヒトラー」連隊に入隊した。39年にはSS軍曹として装甲車の車長として
対ポーランド戦に従軍し、その翌年には対フランス戦に参加している。41年には
突撃砲部隊に転属して東部戦線に従軍し、単独でソ連軍戦車6両を撃破する活躍を見せた。
42年7月にバート・テルツのSS士官学校に入学し、同年12月に少尉に任官してSS
アドルフ・ヒトラー師団の装甲連隊第13中隊に配属され、最新型のティーガー重戦車を受領した。
ヴィットマンは、東部戦線の戦車戦で多数のソ連軍戦車と対戦車砲を撃破し、44年1月13日には
その功績によって騎士十字章を授章されている。その後も急ピッチでスコアを伸ばし、
早くも1月30日には柏葉騎士十字章を授与されると同時にSS中尉に昇進した。
ヴィットマンは新たに編成されたSS第101重戦車大隊の第2中隊長となり、北フランスへと
移動した。ここで連合軍の進攻作戦に遭遇したヴィットマンは、6月13日のヴィレル・ボカージュの
戦闘で4両のティーガー戦車とともにイギリス軍の進撃を阻止し、22日にはSS大尉に昇進して
剣付柏葉騎士十字章を授与された。その後、彼は8月8日に連合軍の進撃を阻止するために
カーン南方のサントー近くの高地に対する攻撃に参加したが、カナダ軍戦車部隊との戦闘で
壮烈な戦死を遂げた。
彼の遺体は1982年、現場付近の道路拡張工事の際に発見され、現在はラ・カンブの
ドイツ軍人墓地に埋葬されている。
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エルンスト・バルクマン Ernst Barkmann
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1939年4月に親衛隊戦闘部隊(SS−VT)の「ゲルマニア」連隊に入隊し、
同連隊第3大隊第9中隊に所属して対ポーランド戦に従軍。この戦いで負傷するが、
回復後は40年の対フランス戦に参加し、41年6月に対ソ連進攻作戦が開始されると
東部戦線で戦った。
1941年7月には負傷して戦場を離れ、回復後はSS外国人義勇兵訓練の教官を務めるが、
戦車部隊への転属を希望。42年初頭に「ダス・ライヒ」師団(後の第2SS装甲師団
「ダス・ライヒ」)の戦車連隊に配属される。東部戦線で戦ったバルクマンは、
44年初頭に師団とともにフランスへと移動。6月6日に連合軍のヨーロッパ大陸進攻作戦が
開始されると、急遽、ノルマンディ戦線へと投入された。
ノルマンディ戦では、サン・ロー周辺の防御戦闘に従事し、多数の連合軍戦車を撃破。
1944年8月27には騎士十字章を授章した。バルクマンは、同年12月にSS曹長に昇進し、
西部戦線で実施されたアルデンヌ攻勢に参加するが、ここで3度目の負傷をしている。
しかし彼は後送を拒否して包帯を破り捨て、自らの指で身体に残る弾片を取り除いて
原隊へと復帰したといわれる。
大戦末期はオーストリアでソ連軍と戦うが、西側連合軍の戦線へと脱出して、
イギリス軍の捕虜として戦争を終えた。
戦後、バルクマンを訪ねたある取材記者に対して、エース扱いやヒロイズムを嫌う彼は
次のように述べている。
「私は他の多くの者よりも運が良かっただけで、兵士としての義務を果たしたに過ぎません。
敵との戦いに全精力を使い、スコアなど数えているような余裕などありませんでした。」
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ヨアヒム・パイパー Joachim Peiper
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1934年に親衛隊戦闘部隊(SS−VT)に入隊し、SS士官学校を経てSS少尉として
「アドルフ・ヒトラー」連隊に配属された。38年にはSS長官ハインリヒ・ヒムラーの
副官となるが、再度戦闘部隊に復帰。40年の対フランス戦と翌年のバルカン半島作戦では
「アドルフ・ヒトラー」連隊の第11中隊(第10中隊とする資料もある)長として戦い、
東部戦線の戦いではその勇敢さと指導力で高い評価を得ている。
1943年1月にはSS少佐として第2SS装甲擲弾兵連隊の第3大隊長に就任。
同年3月9日にはハリコフ戦における功績で騎士十字章を授与された。そして12月には
第1装甲連隊の指揮官に就任したが、これによってパイパーはドイツ軍において最年少の
連隊長となっている。44年1月27日には東部戦線における功績から柏葉騎士十字章を授章した。
44年6月にはノルマンディで連合軍と戦い、同年12月のアルデンヌ攻勢ではSS第1戦車師団
第1戦車連隊の連隊長を努め、主力部隊の先鋒として「パイパー戦闘団」を率いたが、
補給不足とアメリカ軍の抵抗にあって作戦は失敗している。しかし、この戦いにおける
功績が評価され、12月28日には剣付柏葉騎士十字章が授与された。
戦後はアルデンヌ攻勢時に発生した「マルメディの虐殺」事件の責任者として起訴され、
死刑判決を受けたが、裁判は復讐的な性格の強いものであり、1956年に釈放されている。
その後フランスのトラーヴに居を構えたが、76年7月に左翼のテロ集団によって殺害された。
映画「バルジ大作戦」では、アルデンヌ攻勢におけるパイパーの戦いが描かれている。
〜参考文献〜
『グラフィックアクションbT3 WW2ドイツ軍人プロファイル』
文林堂
『グラフィックアクションbS6 ドイツ軍 戦車撃破王列伝』
文林堂
『W.W.U 戦車隊エース』 光栄
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