2.ドイツの戦車エースは世界一ィィ!!



「戦車」といわれる兵器を初めて戦争に使ったのはイギリス軍で、

1916年9月、第1次世界大戦でのことである。

第1次世界大戦に敗れたドイツは、ベルサイユ条約により戦車を保有することが禁止されたが、

ソビエト連邦の協力で戦車戦術などを学んだ。

その甲斐あって、ドイツは戦闘部隊の主力として戦車を運用する軍事理論を確立し、

第2次世界大戦では多くの「戦車エース」を生み出したのである。


ヴィットマン ミヒャエル・ヴィットマン
Michael Wittmann
最終階級 大尉(SS)
出身 フォーゲルタール
生年 1914年4月22日
没年 1944年8月8日(戦死)
所属部隊 陸軍・第19歩兵連隊
SS「アドルフ・ヒトラー」師団
SS第101重戦車大隊
スコア 戦車:138台、砲:132門

第1次大戦中に鋼鉄製で全装軌式の、「戦車」と呼ばれる兵器が登場して以来、

その戦車戦史を通して最高の撃破スコアを挙げ、その活躍が今日に至るまでさまざまな研究書で

詳細に語られているトップ・エースがミヒャエル・ヴィットマンである。

ヴィットマンは、1934年に陸軍に入隊し、36年には上等兵として除隊している。その翌年1月には

SS「アドルフ・ヒトラー」連隊に入隊した。39年にはSS軍曹として装甲車の車長として

対ポーランド戦に従軍し、その翌年には対フランス戦に参加している。41年には

突撃砲部隊に転属して東部戦線に従軍し、単独でソ連軍戦車6両を撃破する活躍を見せた。

42年7月にバート・テルツのSS士官学校に入学し、同年12月に少尉に任官してSS

アドルフ・ヒトラー師団の装甲連隊第13中隊に配属され、最新型のティーガー重戦車を受領した。

ヴィットマンは、東部戦線の戦車戦で多数のソ連軍戦車と対戦車砲を撃破し、44年1月13日には

その功績によって騎士十字章を授章されている。その後も急ピッチでスコアを伸ばし、

早くも1月30日には柏葉騎士十字章を授与されると同時にSS中尉に昇進した。

ヴィットマンは新たに編成されたSS第101重戦車大隊の第2中隊長となり、北フランスへと

移動した。ここで連合軍の進攻作戦に遭遇したヴィットマンは、6月13日のヴィレル・ボカージュの

戦闘で4両のティーガー戦車とともにイギリス軍の進撃を阻止し、22日にはSS大尉に昇進して

剣付柏葉騎士十字章を授与された。その後、彼は8月8日に連合軍の進撃を阻止するために

カーン南方のサントー近くの高地に対する攻撃に参加したが、カナダ軍戦車部隊との戦闘で

壮烈な戦死を遂げた。

彼の遺体は1982年、現場付近の道路拡張工事の際に発見され、現在はラ・カンブの

ドイツ軍人墓地に埋葬されている。


バルクマン エルンスト・バルクマン
Ernst Barkmann
最終階級 曹長(SS)
出身 ホルシュタイン(キスドルフ)
生年 1919年8月25日
没年 不明
所属部隊 SS−VT「ゲルマニア連隊」
第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」
スコア 戦車:50台以上

1939年4月に親衛隊戦闘部隊(SS−VT)の「ゲルマニア」連隊に入隊し、

同連隊第3大隊第9中隊に所属して対ポーランド戦に従軍。この戦いで負傷するが、

回復後は40年の対フランス戦に参加し、41年6月に対ソ連進攻作戦が開始されると

東部戦線で戦った。

1941年7月には負傷して戦場を離れ、回復後はSS外国人義勇兵訓練の教官を務めるが、

戦車部隊への転属を希望。42年初頭に「ダス・ライヒ」師団(後の第2SS装甲師団

「ダス・ライヒ」)の戦車連隊に配属される。東部戦線で戦ったバルクマンは、

44年初頭に師団とともにフランスへと移動。6月6日に連合軍のヨーロッパ大陸進攻作戦が

開始されると、急遽、ノルマンディ戦線へと投入された。

ノルマンディ戦では、サン・ロー周辺の防御戦闘に従事し、多数の連合軍戦車を撃破。

1944年8月27には騎士十字章を授章した。バルクマンは、同年12月にSS曹長に昇進し、

西部戦線で実施されたアルデンヌ攻勢に参加するが、ここで3度目の負傷をしている。

しかし彼は後送を拒否して包帯を破り捨て、自らの指で身体に残る弾片を取り除いて

原隊へと復帰したといわれる。

大戦末期はオーストリアでソ連軍と戦うが、西側連合軍の戦線へと脱出して、

イギリス軍の捕虜として戦争を終えた。

戦後、バルクマンを訪ねたある取材記者に対して、エース扱いやヒロイズムを嫌う彼は

次のように述べている。

「私は他の多くの者よりも運が良かっただけで、兵士としての義務を果たしたに過ぎません。

敵との戦いに全精力を使い、スコアなど数えているような余裕などありませんでした。」


パイパー ヨアヒム・パイパー
Joachim Peiper
最終階級 大佐(SS)
出身 ベルリン(ヴィルマースドルフ)
生年 1915年1月30日
没年 1976年7月14日
所属部隊 SS「アドルフ・ヒトラー」連隊
SS第2装甲擲弾兵連隊
SS第1装甲連隊
SS第1戦車師団
スコア

1934年に親衛隊戦闘部隊(SS−VT)に入隊し、SS士官学校を経てSS少尉として

「アドルフ・ヒトラー」連隊に配属された。38年にはSS長官ハインリヒ・ヒムラーの

副官となるが、再度戦闘部隊に復帰。40年の対フランス戦と翌年のバルカン半島作戦では

「アドルフ・ヒトラー」連隊の第11中隊(第10中隊とする資料もある)長として戦い、

東部戦線の戦いではその勇敢さと指導力で高い評価を得ている。

1943年1月にはSS少佐として第2SS装甲擲弾兵連隊の第3大隊長に就任。

同年3月9日にはハリコフ戦における功績で騎士十字章を授与された。そして12月には

第1装甲連隊の指揮官に就任したが、これによってパイパーはドイツ軍において最年少の

連隊長となっている。44年1月27日には東部戦線における功績から柏葉騎士十字章を授章した。

44年6月にはノルマンディで連合軍と戦い、同年12月のアルデンヌ攻勢ではSS第1戦車師団

第1戦車連隊の連隊長を努め、主力部隊の先鋒として「パイパー戦闘団」を率いたが、

補給不足とアメリカ軍の抵抗にあって作戦は失敗している。しかし、この戦いにおける

功績が評価され、12月28日には剣付柏葉騎士十字章が授与された。

戦後はアルデンヌ攻勢時に発生した「マルメディの虐殺」事件の責任者として起訴され、

死刑判決を受けたが、裁判は復讐的な性格の強いものであり、1956年に釈放されている。

その後フランスのトラーヴに居を構えたが、76年7月に左翼のテロ集団によって殺害された。

映画「バルジ大作戦」では、アルデンヌ攻勢におけるパイパーの戦いが描かれている。


〜参考文献〜

『グラフィックアクションbT3 WW2ドイツ軍人プロファイル』 文林堂

『グラフィックアクションbS6 ドイツ軍 戦車撃破王列伝』 文林堂

『W.W.U 戦車隊エース』 光栄


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