潜水艦といえば「Uボート」、Uボートといえば「潜水艦」といわれるぐらい
ドイツのUボートは有名な潜水艦である。
その超有名なUボートは日本の伊号に比べると小型で性能も劣っていたが、
「狼群戦術」という優れた戦術で通商破壊戦を行うことによって
多くの戦果を上げ、下記のようなUボートエース生み出したのである。
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オットー・クレッチマー Otto Kretschmer
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1930年にドイツ海軍に入隊し、36年12月1日からU35に乗り込んでスペイン内戦の
支援任務に参加。37年10月1日付けで艦長としてU23に乗艦。第2次大戦では
40年4月18日からU99に乗り込み、ドイツが誇るUボート司令官として数々の戦績を残す。
クレッチマーは持ち前の判断力と直感力から、ビスケー湾海域を始めとする作戦航海を
16回にわたって成功に導き、北大西洋、そして北方運河ではイギリスの輸送艦に
通告を与えてから沈めるなど、まれに見る騎士道精神を持った軍人だった。イギリス駆逐艦
「デアリング」撃沈後の40年11月には通産43、44隻目にあたるイギリス商船
「ローレンティク」と「パトロクラス」を沈め、名実ともにドイツ海軍一のUボート艦長となる。
1941年3月17日、ヨアヒム・シェプケ(39隻、159,130t撃沈)のU100とともに
アイスランド海域で輸送船団(HX112)を攻撃するが、護衛駆逐艦「ウォーカー」の
爆雷によって損傷、乗組員とともに捕虜となる。その後はカナダのボーマンヴィル収容所に
送られて捕虜代表となり、脱走計画を立案している。47年12月31日に釈放され、
戦後は西ドイツ国防軍に勤務していた。
クレッチマーは1940年8月4日にU99を指揮して117,000tの撃沈を記録したことから
フランスのロリアン港で騎士十字章を授章。40年11月4日には同じくU99を指揮して
200,000tの撃沈を記録しヒトラー直々に6番目の柏葉騎士十字章を授けられる。
これは潜水艦の艦長としては2人目の快挙だった。さらに41年12月26日には、
おおよそ300,000tの撃沈記録から第5番目の剣付柏葉騎士十字章を授章している。
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エーリヒ・トップ Erich Topp
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1934年にドイツ海軍に入隊後、第7Uボート戦隊に配属され、38年11月2日から
U46に将校として乗艦。第2次大戦が始まると40年6月5日にU57艦長となり、
6月17日の初出撃で早くもスウェーデン商船「アトス」(2,160t)を撃沈。その3週間後には
イギリス商船「セイント・ダンスタン」(5,860t)を撃沈した。同年12月4日からは
大型潜水艦ZCのU552艦長に任命され、良く41年3月1日にはイギリス油槽船
「キャデラック」(12,000t)を撃沈。その後も次々と連合軍商船を沈めていった。
彼がいかに優れたUボート指揮官であったかは合計13回にわたった作戦航海の範囲が
北大西洋を始め、北方運河、ジブラルタル海峡、ニューファンドランド、さらにアメリカ沿岸にまで
及んだ事実が証明している。とりわけ彼の得意とした戦術は夜間攻撃で、これは連合軍将兵に
対して大いに警戒心を抱かせたといわれる。
1942年11月14日に第27Uボート戦隊(練習潜水艦)の指揮官となり、44年8月7日からは
Uボート訓練所の所長を勤めて優れた人材の育成にあたった。だが戦局の悪化から
再び前線に復帰し、45年3月11日からU3010の指揮官、4月7日から敗戦を迎えるまでは
U2513の艦長を勤めた。
ドイツ降伏後は45年8月5日から8月17日までイギリスの捕虜収容所に拘留されていた。
その後は西ドイツ海軍に在籍し、海軍少将となっている。
トップにはU552の艦長を勤めていた1941年6月20日に騎士十字章が、
翌42年4月11日には第87番目の柏葉騎士十字章が授与されており(海軍の軍人として
12人目)、さらに42年8月17日には第17番目の剣付柏葉騎士十字章が彼の功績を称えて
授けられた。
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ギュンター・プリーン Gunther Prien
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船員を夢見てハンブルクの航海学校を卒業後、商船「サンフランシスコ」の航海見習いとなるが、
不況の煽りを受けて失職し、1932年にドイツ海軍入隊。早くからその能力が認められ、
大尉でU47の艦長に就任する。
第2次大戦開戦から間もない39年10月14日、海軍司令官カール・デーニッツの命令で
イギリス海軍の本拠地であるオークニー諸島のスカパ・フロー港へカーク水道から潜入し、
2度の攻撃で停泊中のイギリス戦艦「ロイヤル・オーク」(29,500t)を撃沈したほか、
巡洋戦艦「レパルス」に損害を与える。この奇襲作戦の成功によって10月18日に騎士十字章を
授章。第1次大戦が終わったとき、ドイツ大海艦隊が自沈させられた因縁の場所
「スカパ・フロー」港に侵入し、イギリス海軍の至宝を撃沈した英雄として一躍プリーンの名は
知られるようになる。
その後もプリーンは優れたUボート指揮官として、その才能と度胸を持って数度にわたる航海で
28隻の連合軍艦船を沈め、特に1940年6月14日からの約1週間では貨物船1隻、商船3隻、
タンカー1隻を撃沈する大活躍を見せた。同年10月20日には第5番目の柏葉騎士十字章を
授章している。しかし41年3月8日、ドイツ海軍きってのUボート艦長
オットー・クレッチマー中佐のU99とともにアフリカへ向かう輸送船団(OB293)を追尾中、
イギリス海軍の駆逐艦「ウォルヴェリン」に撃沈され、プリーン以下乗員全員が艦と運命を
ともにした。
ドイツ国防軍最高司令部はスカパ・フロー軍港襲撃の英雄プリーンの戦死を5月まで発表しなかった。
デーニッツはプリーンの戦死告辞で次のように語っている。
「彼ら(スカパ・フローの英雄)はイギリスに対する勝利の断固たる意志のシンボルとなった。
我々はこの精神を守り抜き戦い抜くであろう。」
〜参考文献〜
『グラフィックアクションbT3 WW2ドイツ軍人プロファイル』
文林堂
『グラフィックアクションbP9 戦うドイツ海軍』
文林堂
『第二次世界大戦文庫9 Uボート』 サンケイ出版
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