3.ドイツのUボートエースは世界一ィィ!!



潜水艦といえば「Uボート」、Uボートといえば「潜水艦」といわれるぐらい

ドイツのUボートは有名な潜水艦である。

その超有名なUボートは日本の伊号に比べると小型で性能も劣っていたが、

「狼群戦術」という優れた戦術で通商破壊戦を行うことによって

多くの戦果を上げ、下記のようなUボートエース生み出したのである。


クレッチマー オットー・クレッチマー
Otto Kretschmer
最終階級 中佐
出身 シュレージェン(ハイダウ)
生年 1912年5月1日
没年 生存(?)
スコア 44隻
266,629t
乗艦 U23、U99

1930年にドイツ海軍に入隊し、36年12月1日からU35に乗り込んでスペイン内戦の

支援任務に参加。37年10月1日付けで艦長としてU23に乗艦。第2次大戦では

40年4月18日からU99に乗り込み、ドイツが誇るUボート司令官として数々の戦績を残す。

クレッチマーは持ち前の判断力と直感力から、ビスケー湾海域を始めとする作戦航海を

16回にわたって成功に導き、北大西洋、そして北方運河ではイギリスの輸送艦に

通告を与えてから沈めるなど、まれに見る騎士道精神を持った軍人だった。イギリス駆逐艦

「デアリング」撃沈後の40年11月には通産43、44隻目にあたるイギリス商船

「ローレンティク」と「パトロクラス」を沈め、名実ともにドイツ海軍一のUボート艦長となる。

1941年3月17日、ヨアヒム・シェプケ(39隻、159,130t撃沈)のU100とともに

アイスランド海域で輸送船団(HX112)を攻撃するが、護衛駆逐艦「ウォーカー」の

爆雷によって損傷、乗組員とともに捕虜となる。その後はカナダのボーマンヴィル収容所に

送られて捕虜代表となり、脱走計画を立案している。47年12月31日に釈放され、

戦後は西ドイツ国防軍に勤務していた。

クレッチマーは1940年8月4日にU99を指揮して117,000tの撃沈を記録したことから

フランスのロリアン港で騎士十字章を授章。40年11月4日には同じくU99を指揮して

200,000tの撃沈を記録しヒトラー直々に6番目の柏葉騎士十字章を授けられる。

これは潜水艦の艦長としては2人目の快挙だった。さらに41年12月26日には、

おおよそ300,000tの撃沈記録から第5番目の剣付柏葉騎士十字章を授章している。


トップ エーリヒ・トップ
Erich Topp
最終階級 中佐
出身 ハノーファー
生年 1914年7月2日
没年 生存(?)
スコア 34隻
193,684t
乗艦 U57、U552、U2513

1934年にドイツ海軍に入隊後、第7Uボート戦隊に配属され、38年11月2日から

U46に将校として乗艦。第2次大戦が始まると40年6月5日にU57艦長となり、

6月17日の初出撃で早くもスウェーデン商船「アトス」(2,160t)を撃沈。その3週間後には

イギリス商船「セイント・ダンスタン」(5,860t)を撃沈した。同年12月4日からは

大型潜水艦ZCのU552艦長に任命され、良く41年3月1日にはイギリス油槽船

「キャデラック」(12,000t)を撃沈。その後も次々と連合軍商船を沈めていった。

彼がいかに優れたUボート指揮官であったかは合計13回にわたった作戦航海の範囲が

北大西洋を始め、北方運河、ジブラルタル海峡、ニューファンドランド、さらにアメリカ沿岸にまで

及んだ事実が証明している。とりわけ彼の得意とした戦術は夜間攻撃で、これは連合軍将兵に

対して大いに警戒心を抱かせたといわれる。

1942年11月14日に第27Uボート戦隊(練習潜水艦)の指揮官となり、44年8月7日からは

Uボート訓練所の所長を勤めて優れた人材の育成にあたった。だが戦局の悪化から

再び前線に復帰し、45年3月11日からU3010の指揮官、4月7日から敗戦を迎えるまでは

U2513の艦長を勤めた。

ドイツ降伏後は45年8月5日から8月17日までイギリスの捕虜収容所に拘留されていた。

その後は西ドイツ海軍に在籍し、海軍少将となっている。

トップにはU552の艦長を勤めていた1941年6月20日に騎士十字章が、

翌42年4月11日には第87番目の柏葉騎士十字章が授与されており(海軍の軍人として

12人目)、さらに42年8月17日には第17番目の剣付柏葉騎士十字章が彼の功績を称えて

授けられた。


プリーン ギュンター・プリーン
Gunther Prien
最終階級 少佐
出身 ライプチヒ
生年 1908年
没年 1941年3月8日
スコア 28隻
160,939t
乗艦 U47

船員を夢見てハンブルクの航海学校を卒業後、商船「サンフランシスコ」の航海見習いとなるが、

不況の煽りを受けて失職し、1932年にドイツ海軍入隊。早くからその能力が認められ、

大尉でU47の艦長に就任する。

第2次大戦開戦から間もない39年10月14日、海軍司令官カール・デーニッツの命令で

イギリス海軍の本拠地であるオークニー諸島のスカパ・フロー港へカーク水道から潜入し、

2度の攻撃で停泊中のイギリス戦艦「ロイヤル・オーク」(29,500t)を撃沈したほか、

巡洋戦艦「レパルス」に損害を与える。この奇襲作戦の成功によって10月18日に騎士十字章を

授章。第1次大戦が終わったとき、ドイツ大海艦隊が自沈させられた因縁の場所

「スカパ・フロー」港に侵入し、イギリス海軍の至宝を撃沈した英雄として一躍プリーンの名は

知られるようになる。

その後もプリーンは優れたUボート指揮官として、その才能と度胸を持って数度にわたる航海で

28隻の連合軍艦船を沈め、特に1940年6月14日からの約1週間では貨物船1隻、商船3隻、

タンカー1隻を撃沈する大活躍を見せた。同年10月20日には第5番目の柏葉騎士十字章を

授章している。しかし41年3月8日、ドイツ海軍きってのUボート艦長

オットー・クレッチマー中佐のU99とともにアフリカへ向かう輸送船団(OB293)を追尾中、

イギリス海軍の駆逐艦「ウォルヴェリン」に撃沈され、プリーン以下乗員全員が艦と運命を

ともにした。

ドイツ国防軍最高司令部はスカパ・フロー軍港襲撃の英雄プリーンの戦死を5月まで発表しなかった。

デーニッツはプリーンの戦死告辞で次のように語っている。

「彼ら(スカパ・フローの英雄)はイギリスに対する勝利の断固たる意志のシンボルとなった。

我々はこの精神を守り抜き戦い抜くであろう。」


〜参考文献〜

『グラフィックアクションbT3 WW2ドイツ軍人プロファイル』 文林堂

『グラフィックアクションbP9 戦うドイツ海軍』 文林堂

『第二次世界大戦文庫9 Uボート』 サンケイ出版


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