三瓶に生きる 15〜23



これは 山陰中央新報で2000/08/12〜10/21の間 連載された高橋泰子の文章です。

INDEX


三瓶に生きる 15

「語り部」として

 昭和54年に岩手県から移り住んでから、20年余り三瓶のふもとで暮らしている。今では大田弁の染み付き具合からか、東北生まれと言ってもズーズー弁を披露するまでだれも信じてくれない。
 40数年前、東北でも珍しい100頭も乳牛を飼う農家に生まれた。来る日も来る日も続く農作業の中で育った。
 だれに勧められるでもなく志した大学で目にしたのは、大型機械を駆使する近代農業だった。家族労働を基本に、勤勉を絵に描いた家庭に生まれた者にとって、欧米的農業はカッコ良く衝撃的だった。
 労働力として当てにされ、友達と遊ぶこともままならなかった時代を過ごした身には、この出会いは神様のおぼしめしのように思え、近代農業こそが農業者に「ゆとりと解放」をもたらすと信じて推進した。

 主人の仕事の関係で大田に来た。三瓶山との最初の出会いはそれほど鮮烈ではなかった。初めて対峙した風景にインパクトはなく、どこにでもある観光地、お手軽な山というイメージだけだった。
 学生時代、研究テーマにした外来牧草があちこちに見られ「ここも近代化の波に洗われた」程度の認識で、その後を過ごした。
 ある日、手にした絵はがきに印刷されている「国立公園三瓶山」の文字を見て仰天した。
 自分の不見識さを隠すため、そっと資料を集めた。わざわざ三瓶山に上がり、看板の「国立公園」の文字を確認。しかい、どうしても合点がいかなかった。

 この山のどこを見ても、国立公園の指定を受ける根拠を見つけることができない。何せ、自分が今まで見た国立公園、国定公園のどれと比較しても、あまりにも醜かったからだ。
 わが身の過去と同じく「三瓶は戦後農政の光と影の部分を一身に背負っている」。そう気が付くまでに長い年月がかかり、回り道をした。
 豊かな自然、資源、歴史がありながら、それを捨て植林やリゾート計画など、風土に生かし切れないもので飾り、ほかにもっともっとと願う人間の心が、三瓶山に映し出されている気がした。

 歴史をひもとけば、ひもとくほど分かる先人が残した炭焼きや放牧、採草、野焼きなどの農の伝承技術。その営みが、知らず知らずのうちに国立公園に指定されるほどの、美しい山をつくり出してきたことが理解されない現状では、歴史を知る由もない人たちに「国立公園の指定を外せ」と叫ばれてもしょうがない。
 しかし、それでは余りにも三瓶の山が悲しい。昔の農村の豊かさを忘れ、三瓶を醜いと言った私は、先人がつくり上げた三瓶の景観と、その道程を知らせる「語り部」になる責任があるように思う。
 近代化が、ゆとりをもたらす最大のものと信じ、推進してきたわが身の罪を償うように、仲間と友に「農家の生業を通じての景観保全」に取り組んでからは、心に感じてきた痛みが少しずつ薄れて来ている。
 私は今、「三瓶に生きている」。いや「三瓶に救われ、生かされている」気がする。

  緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 (山陰中央新報 2000/08/12 掲載)


三瓶に生きる 16

草原インストラクター

 東の原の草原。ここは途絶えることなく放牧が行われ、牛の食欲が丈の短い芝の繁殖を助け、積雪が30cmもあればスキーが可能な、全国でも珍しい牛が管理するゲレンデだ。この草原の実績をもとに農家と研究機関、大田市が協力し、西の原にも四半世紀ぶりに牛が放された。
 8年春、その瞬間を見ようと集まった人だかりの中に、もちろん私もいた。牛舎からの道のりを車に揺られて運ばれてきた牛たちは、これからどこに連れて行かれるかと不安そうな顔つきだった。
 飼い主に引かれ車の荷台から、そろりそろりと足を踏み出した。そして、広い放牧場の水飲み場に連れて行かれ、水を飲むと、今度は嬉しそうに重い体を支えている足を次々に伸ばし、ピョンピョンと跳びはねて見せた。
 綱を解き放されると、今日から自分たちの生活の場になる草原を駆け回り始めた。飼い主が呼ぶと、広い放牧場の奥からでも500kgの巨体を揺り動かし、土煙を上げて駆け寄ってくる姿は圧巻だった。
 しかし、一方で子犬と同じ甘えた目は、人懐っこくかわいらしくも見えた。しばらくして、自分たちはここで暮らすのだと悟ったらしく、落ち着きを取り戻して草を食べ始めた。

 「ザッ、ザッ、ザッ」。舌で草を巻き込み、むしり取って食べる音が「これからの三瓶山の美しさをつくり上げていく力強さになるんだ」と思い、胸がきゅーんと熱くなった。
 傍らで「わしらの夢は山のてっぺんまで牛を放し、昔の三瓶の景色を取り戻すことだ」と顔を紅潮させてマスコミに話す農家と同じ夢を見たいと、その瞬間思った。
 放牧が再開されて間もないころ、観光客が閉め忘れたゲートから牛が逃げ出す事件が起こった。地元の人なら、放って置いても放牧地に戻ると知っているから大騒ぎにはならないが、観光客への紹介誌、パンフレットに何の記述もないのでは、「国立公園で牛が逃げ出した」と、騒ぎ出す観光客がいても仕方がないと思った。
 「きちんと放牧をしってもらわなければいけない」。そんな思いから、テレホンカードにメッセージを添えて売るアイディアが生まれ、収益金で看板を設置することができた。
 「よそもんが何でそんなことするや!」と言われながらも、着々と農家や行政機関とのパートナーシップを強めていったのも、この時期からだった。
 講演会、パンフレット作りなど、できる限りの啓発活動を一つ一つ精力的にこなしていった。数ある活動の中で好評なのが、学校行事で三瓶に来る児童、生徒が、牛と触れ合いながら「三瓶の自然と成り立ちについて」を語る草原インストラクター制度だった。

 広い草原の遠くに、黒い点に見えた牛たちが走り寄って、次第にその姿をあらわにすると、その大きさに驚き、子どもたちは目をキラキラさせながら歓声を上げる。  それだけでは収まるわけはない。おしっこしたといっては歓声、うんこが大きいといっては歓声を上げることに忙しい。
 そして、恐る恐る触って感じる牛たちのぬくもりに、また感動する。草原を肌で感じてくれ、インストラクターの話を真剣に聞く子どもたちの姿に、思いを伝えた喜びを感じる。
 こんな子どもたちとの触れ合い、農家との出会いが、ますます私たちを三瓶に引き寄せ、その後の活動の原動力になっていった。

緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 <山陰中央新報 2000/08/26 掲載>


 

三瓶に生きる 17

野焼きボランティア

 草原を維持するには放牧だけでなく、火入れも重要だ。三瓶では昔から農家が、次の年に良い草がはるようにと、地域全体の行事として山に火を入れていた。
 しかし、時代が変わり、放牧や火入れがなくなった三瓶の草原には、背の高いススキや灌木が目立ち、芝やネザサ、そして四季を彩る草花が姿を消し、汚く荒れていった。「枯れても土に還ることの少ないススキは、火入れが行われなくなった年月の分だけ、茎や葉が積もっていくので危険」と火事を心配する声が上がっていた。

 その矢先、昭和63年、失火が原因で大火が起こってしまった。この反省から翌年、大田市が西の原の野焼きを復活させた。
 私たちは「今の三瓶の草原の管理は行政だけでなく、新たに農家、地域住民とともに、都市住民に参加をしてもらおう」と主張。全国からボランティアを募集することを提案した。
 「そんなもんに金を払ってまで来るもんがいるもんか」「一年だけじゃな!」「足手まといになる」「事故が起こったらだれが補償する」など、次々と心配事だけを繰り返す人たちをしり目に難問をクリアし、計画を進めた。
 そうは言っても、野焼きをする三月は天候不順の日が多い。風が吹けば危ないし、雨が降ればもちろんだめ。そんな不確定要素一杯の行事に参加してくれる人が本当にいるのだろうか、と内心不安だらけ。それなのに「この十年近く、初日に実行できた日はない」と追い打ちをかけられる。でも、開き直った。「えーい、晴れさせてやる。晴れればほかに問題ないんだろう」。持ち前の負けず嫌いに神様が味方してくれた。

 8年、三瓶西の原に市職員、警察署員、消防署員など総勢150人が立ち並ぶ物々しい雰囲気の中で、私たちはうれしさに沸いていた。
 8班に分けられた本部火入れ隊に対して、ボランティアは2人ずつ、あわせて16人がついた。予想以上に集まった人数は放牧の邪魔になるイバラを刈ることにした。名付けて「火消し隊」と「イバラ刈り隊」。ボランティアの印は、女性会員手作りの赤い腕章と名札だった。目立ちたがり屋の私には、その上に3本の白線が入っていた。
 野焼きと言っても、ボランティアの仕事は山側に燃え移らないように火を消し止める初期消火作業だ。しかし、20kgの水を入れたジェットシューターを担ぎ、熱い火を避け山道を歩くのは見た目以上にきつい。
 「火入れがうまくいきますように。ボランティアの人たちにけががありませんように」と願い、双眼鏡でチェックした。無事終了した時、安堵感とはこういうものかと思った。
 配られる「さんべ荘」の入湯券を楽しみに来る人、本当に三瓶が好きという純粋な気持ちで参加する人がたくさんいることも知ってもらえた。
 数回経験した現在、色別ゼッケンで班の識別とボランティアの区別ができるアイディアなど、参加者の客観的な意見を取り入れてもらう行政との関係もできた。
 地域の助け合いが崩壊した今、こんな身近な作業を通して、皆に知恵と力を借り、新しい草原維持システムをつくっていかなければならないと感じている。そうでもしないと、三瓶の本当の美しさを知ってもらえる日が永遠に来ないと思うからだ。

緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 (山陰中央新報 2000/09/02 掲載)


三瓶に生きる 18

草原サミット(上)

 放牧復活からわずか数年、次第にその輪郭を見せ始めた西の原草原。長い間ススキに埋もれながらも、たくましく命をつないできた市の花「レンゲツツジ」は今年もたくさんの花をつけ、遅かった春を待ちわび、風にそよいでいた。
 「むかしの三瓶は、こがーだったなー」。地元の人もこの風景を作ってきた主を思いだし、美しい草原だったころを懐かしんでいる。このように「農家の生業」で景観維持、植生復活に成功した例は国内では珍しく、研究者からも注目され、三瓶の草原は全国に知れ渡った。
 しかし、私たちがこの「三瓶での挑戦の重要性」を知ったのは、平成7年、大分県久住町で開かれた「久住高原野焼きシンポジウム・全国草原サミット」を経験してからだった。
 国土面積の1%にも満たない草原は、もはや絶滅にひんしているのも同然だ。サミットは、その危機を叫び、維持の方法を全国の草原を持つ市長村とともに考えるという趣旨のものだった。
 「牛がいなくなった草原の維持は野焼きで管理するか、姿を消すのを待つだけ。その点、三瓶では野焼きもできるし、何て言ったって牛を放したい農家がいる。三瓶の草原を守らなければ、日本の草原はどこも残らない」という思いが募った私たちは、大田市でこのサミットが開催されることを願った。

 チャンスは意外に早く巡ってきた。第二回開催予定地での話がとん挫し、次回の開催地を探しているのだ。私は色めき立った。「今だ」
 話を聞いた次の日には行動に移っていた。久住町の開催を担当したNGO(非政府組織)から早速情報を入手。しかし、手に届いた資料の膨大さと金額の大きさ、そして事の重大さにようやく気が付いたころには、みんなをレールに乗せてしまっていた。

 一ヶ月もかけ、目の下にくまををつくりながら書いた申請書が、難関を突破して助成金を受け取れるころ、県が応援してくれて大田市、三瓶放牧委員会とともに実行委員会を立ち上げるまでにこぎ着けた。
 ポスター作り、会場選び、予算配分、講師とのやりとり、文書つくりなどやることはいっぱいあった。市の職員二人が日常の仕事の合間に引き受ける事務局の態勢ではとうていこなしきれない仕事量だった。実行委員長の私が開催までのほとんどの日を、市役所の中で過ごすようになってしまった。
 ルーペ片手に、地図帳から草原を持つ市町村を片っ端から拾い上げ、案内状を送った。だれもが知っている草原を持つ市町村でも、担当者の認識がなかったり、連絡が取れても内容が伝わらないことがあった。「草原サミット」を「くさっぱらサミット」と電話口でいわれ、がっくり肩を落としたこともあった。
 後援団体名をチラシに印刷する順番を決める時も、草原問題そっちのけに繰り広げられる省庁間のやりとりには「あいうえお順でいいじゃない」と大声を上げそうになった。怒りをこらえる場面が多く、短気な私にはとてもつらかった。
 そんな中、オープニングビデオや音楽作り、写真展示、映画券売り、草原観察会の準備と、会員であるなしにかかわらず手伝ってくれる三瓶を愛するたくさんの人たちの心意気が私を支えてくれた。

 構想から2年後の平成9年10月、29都道府県から延べ1千人が集まって「草原シンポジウム97 第二回草原サミット」は、多くの草原維持に悩む市町村をネットワーク化し、幕を開けた。
 「人の生業で成り立つ草原の荒廃は、農村崩壊の象徴である」と位置づけた大田のサミットで、草原問題は日本の農村の在り方を本質的に問うものになった。

緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 (山陰中央新報 2000/09/09 掲載)


三瓶に生きる 19

草原サミット(下)

 平成9年10月3日の夜、「原野の子」の上映を皮切りに、三日間にわたる「草原シンポジウム97 第2回草原サミット」の幕が開いた。広大な草原を抱える阿蘇12町村、8万人がお金を出し合って製作されたこの映画は、阿蘇を舞台にしたものではあったが、日本のどこの農村でも抱えている問題を取り上げ、これから始まる会のテーマを、観客にわかりやすく示していた。
 翌4日、席に着いた観衆は、草原の緑の世界を思わせる音楽とともに映し出されたオープニングビデオを見た瞬間、息をの呑んだ。
 それは会場で開かれた写真展と同じく、三瓶の自然を農家の歳時記に合わせ何年も撮りためたものだった。子供たちの戯れに目を落とす牛の表情、草原に色とりどりに咲く四季の草花、それに誘われるたくさんの虫たちを見事にとらえていた。
 ふだん何気なく見過ごしている三瓶山の懐の深さと、製作にかかわってきたすべてのボランティアの思いが感じられ、迫力のあるものだった。
 シンポジウムでは、草原を守ろうとするさまざまな取り組みが紹介された。放牧のシンボル「レンゲツツジ」が町の花になっている兵庫県村岡町では、草原を守るため、地域外から牛を受け入れて草原を管理していた。群馬県嬬恋村では、80万本にも上る天然記念物「湯の丸のレンゲツツジ」を「牛の舌刈り」で復元をしているという報告をしてくれた。
 かつて漁師が船を引き揚げるために飼っていた馬が、毒があるため食べないスカシユリ、カンゾウ、アヤメ、クロユリ、スズランが咲き誇っていた北海道小清水町の原生花園の報告は、三瓶とあまりに似ているので驚いた。その原生花園では、SLが走っていたころは、燃えた石炭殻から毎年春に火が入り、花がきれいに咲く環境をつくっていた。
 しかし、漁師が浜からいなくなり、SLが走らなくなってから、花畑は荒れ放題になってしまった。「原生花園」といいながら、人間や植物が管理しなければならない「管理花園」であることに気づき、野焼きを再開したという。
 これらの報告の中に、場所こそ違うが、その地の歴史に学び、生業による保存を伝え、発展させなければならないという人たちの熱い心を感じた。
 安い飼料を求めるため外国に依存する日本の畜産のあり方が、モンゴルなど他の国の植生まで侵しているという報告などは、地元・三瓶の放牧実践農家が、荒れ放題の国有林を畜産利用させて欲しいと申し出ても受け入れられない話とあいまって、日本の農業の体質、本質を考えさせるものがあった。

 サミットでは、県内町村長の発言が注目された。畜産に頼るしかなかったことから、海、島、放牧、草原が一体化した景観を形作り、観光客を引きつけているという隠岐西ノ島町や知夫村の報告があった。
 一方、三瓶のすそ野に放牧していた時代を振り返り「放牧という健全な生業があり、美しい景観があるからこそ観光も成り立った」と、なくしたものの大きさから生業の大切さに気づいたという心痛む話も出た。
 純然たる草原はなくても、草原問題と農村の抱える問題は同じだと察知し、参加したという先見性のある首長の発言にも共鳴した。
 「草原を守る」ことは「草原で暮らす生業を守る」と同じだ。そのためには、農林畜産業を抱えている現状は地域を超えて、一緒に考えていかなければならないと気づかせてくれた。
 最終日の5日、草原自然観察会は、夜半のどしゃ降りがうそのように上がった草原で、牛達と交わりながら心ゆくまで秋を満喫した。次回の開催地北海道での再会を胸に帰路に就いた。

緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 (山陰中央新報 2000/09/23 掲載)


三瓶に生きる 20

牛が作る防火帯(上)

 草原サミットが終わって、ホッとしたのもつかの間、大事件が起きた。10年度、大田市が緊縮財政となり、野焼きができそうにないというのだ。「草原シンポ、サミットまで開き、全国に草原の重要性を訴えたばかりだというのに!」
 よくよく話を聞いてみると、野焼き経費と言っても、ほとんどが前年の9月に行う防火帯作りの経費だった。つまり、森林に火が入らないように、山のふもとを3mから5m幅で、草刈りする費用が出せないということらしい。
 「その数十万円で、貴重な三瓶の自然がどれだけ守れるか計り知れないのに」と思った。一方で、「何とかしなければいけない」と、かなり焦った。
 ある日、放牧の勉強会で電気牧柵の効用を知った。牛は電気をいやがるので、その電線のことを学習させると、決して外には出ないというのだ。
 使い方と言えば、高さ1m程度の丸い絶縁部が付いた金属製のポールを土に差し込み。ポールとポールの間に線を張り、静電気程度の電流を流すという簡単な仕掛けだ。
 「これだ」とひらめいた。幸い、これに慣れた放牧牛が三瓶にはたくさんいる。「電気牧柵で囲った牛を入れ、草を食べて防火帯を作ってもらおう。下刈ならぬ牛の舌刈りだ。三瓶の牛たちはずっとそうしてきたじゃない。どうして気が付かなかったのだろう」
 早速、関係者に連絡。最近では、電気牧柵は一般的になっていて、放牧牛を飼っている関係者から、快諾を得た。
 次に、資金難のため東京の企業に牧柵の提供をお願いすることが必要だった。国立公園のため、県景観自然課へ牧柵を立てる許可申請も、と面倒なものからアタックしていった。
 資金そして認可と、ここまではいつもと違ってスムーズに事が進んだ。だが、そうは簡単に問屋はおろしてくれなかった。
 「水だ」。動物である以上、牛にも水が必要だ。それも、あの体だから総統の量だ。資金繰りに成功したといっても、ボーリングして井戸を掘る費用まではない。「困った」。悩む私を見かねて、放牧をしている農家が水源を知っている人を紹介してくれた。
 そして昔、西の原に埋め込んだというパイプを市と一緒になって探り当てることになった。そうはいっても、広い草原のどこに埋まっているかは分からない。パイプをどうやって見つけるのか。私は悩んだ。
 その時、「水源を探し当てる人がいる」といううわさを聞き、お願いしに行った。サイジングという針金を使う方法で、どんな山の中でも水源を探し当てるという。幸い、その人は協力を約束してくれた。念じれば救いの手は差し伸べられるものだと思った。
 市の担当者の「昔、このあたりにあった」という勘と、サイジングのおかげでパイプが見つかった。水が蛇口から出てきたとき、私の目からも流れるものがあった。
 もっとも、その古いパイプには草の根がはびこり、時々断水して困らせた。そのほかの技術的なことは専門家からアドバイスをもらいながら計画を進めた。さあ、次は電気牧柵の設置の番だ。

緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 (山陰中央新報 2000/09/30 掲載)


三瓶に生きる 21

牛が作る防火帯(下)

 放牧の勉強会に出席させてもらったことが縁で駆けつけてくれた大田市の「里山放牧の会」をはじめとするメンバー20人が、電気牧柵を立てるため三瓶山西の原に集合した。
 初夏の薫りがする6月の三瓶は草丈が胸にまで達し、ツタが絡み地形がわからず足を取られた。イバラに引っかかり、重い草刈り機を抱えて、前に進もうにも進めない状態だった。
そこで、一人が草むらに分け入り、目印のポールを立てて少し前を歩き、ほかのメンバーがその目印に向かって幅1m、長さ1kmの道をつけていく作戦をとった。
 草原の両端から始まり、お互いが真ん中で出会うころには、全員がドロドロ、ズタズタになっていた。しかし、手を休めるわけにはいかない。次はバリカンで刈り上げたような緑の道をつたって、歩幅で計って4m間隔に電気牧柵を立てなければならないからだ。そして、何とか作業は終了した。
 さあ、後は電気を流すだけ。屋外専用のバッテリーから出た線の先のワニグチクリップがピンと張られた電線をかむと9vの電気が流れ、カチカチと表示板のランプが点滅した。
 「本当に電気が流れているのだろうか」。誰かの声に「確かめるには、こうするんだ」と、経験豊富な里山放牧の会員が葉っぱを使って電気が流れているかが分かる方法を教えてくれた。「おっ、きてる」と、電気の衝撃に手を放す。
 放牧場を見ると仮設置していた電気牧柵に好奇心おう盛な若い牛たちが集まってきて鼻を付けた。電気を感じて跳び上がり、ほうほうの体で、そこから遠ざかって行った。どうやら、牛たちも電気牧柵を勉強したようだ。
 放牧場から防火帯に集まった30頭の牛たちは、最初はそわそわと落ち着かないようだった。しかし、そこから見た周りの風景も、今までとさほど変わりがないことに気が付いたのか、一頭が草を食べ始めるころ、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
 日本で初めて牛を使って防火帯をつくる試みにハラハラ、ドキドキの私をよそに、牛たちは1回当たり約2週間の防火帯での暮らしを満喫。その後も数回、放牧場との間を行ったり来たりして見事に草を食べ尽くしてくれた。
 そして、平成11年3月、牛がつくった約2haの防火帯のおかげで、無事に野焼きが終わった。牛たちの活躍で安全な作業ができたうえ、経費も大幅に節約できた。計算してみると、コストはたったの5万円。道つくりが省略できた2年目は約3万円。そして3年目の今年は、もっと安くなるに違いない。
 私たちの取り組みは、実は地域の資源を活用する日本本来の農業にヒントを得ているのにすぎない。三瓶山には「火山の地形のすそ野に展開する牧野景観に足る地域」という、国立公園指定根拠と牛がいて当たり前の歴史があった。
 時代にほんろうされながらも、大田には大田の農業があると、頑張ってきた人たちや、牛との出会いがあったからこそ貴重な三瓶の草原の危機を救うことができた。
 窮地を救ってくれた牛たちは、もはや人手不足を解消してくれる仲間も同じ。感謝の意味を込めて、牛達に心ばかりの賃金を払い、労をねぎらうことにした。
 防火帯を訪れると、芝が増えてまるでビロードを敷いたように美しい。たくましい牛たちにもう少し手伝ってもらおうと、昨年からは登山道周辺でも防火帯づくりに取り組み、少しずつ開拓してもらっている。
 この「モーモー輪地」と命名された防火帯づくりは、環境庁の関連事業として今年から阿蘇で取り組まれ、全国に広がりを見せようとしている。

緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 (山陰中央新報 2000/10/07 掲載)

 


三瓶に生きる 22

消えゆく姫逃池

 むかし、むかし、非業の最期を遂げた姫と若者が、紫と白のカキツバタに生まれ変わった伝説で親しまれている、北の原の姫逃池。年々、池の面積が狭まっているのに加え、心ない観光客が持ち込んだ西洋スイレンが水面を覆い、天然記念物の浮島どころか、池の存在すら危ういという。

 そんなわけで、数年前、三瓶自然館の呼びかけで行われた西洋スイレンの除去作業にボランティアで参加したことがある。
 鎌を持っての刈り取り作業も時間が経つと、長靴の足を上げると、ガボッと脱げて都合が悪い。水深50cmも在ろうか、素足に感じる池の底の感触は、堆積した腐葉土のヌルリとした感触と、分解しきれていない茎の硬さが同時にやってきて、それは表現ができない。おまけに、大きなヒルがヒラヒラと泳ぎ、ずり上げたジーパンの上からでも、めったにありつけない動物の血を吸おうとピタッと吸い付く。
 池の中から見た岸は、初めて訪れた20年前より確実に狭くなっている。それでもジュンサイが浮き、ロープを引っ張れば、カキツバタを乗せた浮島も、容易にたぐりよせることができた。なくなったに見えた西洋スイレンは次の年、人出ではもはや追いつかず、重機で除去したと知った。

 大田市出身の石川武男岩手大名誉教授にお会いした際、その話をすると「そりゃ、君、牛を閉め出したことが原因だよ」と、牛がつくってきた池の話を聞かせてくれた。
 それは、「姫逃池のような昔からの水飲み場は、牛が常に水に入り泥をかきまぜ、水が抜けない土層をつくるのだ。だから、池のままの姿でありえる。阿蘇ではその理論で、池の再生をしたことがある。これを岩大工法という」と教えてくれた。
 そうか。はやり、キーワードは「牛」だったのか。牛は田んぼの水が抜けないように代かきをする耕耘機と同じ役目をしていたんだな。そういえば、昔の姫逃池に限らず、三瓶山周辺のどの池にも牛と馬が仲良く水に入っている姿が映し出されている。

 5、6年前の渇水時、「池の底が見えたよ」とうわさになった姫逃池が、今年の猛暑で「どうなっているのだろう」と気になっていた。暑さも去り、さわやかな初秋の風に誘われて、久しぶりに訪れた。
 見て驚いた。ほとんどが、イ草やススキ、ミゾソバなどに覆われ無残だった。かつて池だった面影は、秋になって少し続いた雨のわずかな水たまりに残されている。もちろん浮島はしっかり根付いてしまい、むなしくロープがたれているだけ。あまりの変わりようを見るにしのびず、そばの三瓶自然館に入り込んだ。
 そこで目にした「消えゆく姫逃池」のパンフレットで、やはり今夏の暑さに耐えきれず、完全に干上がってしまったことを知った。
 「わしゃー、長いこと生きてきたけど、姫逃池の水が干上がったなんてこと、聞いたことがないでな」と言って悲しむお年寄り、市民の思いはどう受け止められるのだろう。こういなる前に手だてがあったはず。阿蘇でも放牧地の池が渇水したが、牛を入れているからこそ、また元に戻っているという。
 観光のために牛を閉め出し、建物を造ってただ見ているだけでは、地元に何ももたらさず、後悔を残すだけだ。小豆原の埋没林を展示する建物の建設現場の音だけが空虚に響いた。

 緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 (山陰中央新報 2000/10/14 掲載)


三瓶に生きる 23

エコツーリズム

 自然観察会に何回か出掛けたことがある。その数時間はたいてい「同定」といって木の種類、草の種類を見分ける方法に終始し、せっかくの一日に、辺りをゆっくりと見渡すことができない。
 参加者は、草木の名前を覚えようと必死の形相だ。今まで、生徒役だった私たちも、そろそろ観察会の主催を考えるころだが、覚え切れていない植物や昆虫の多さに往生していた。
 そんな悩みを抱えていたある時、広島の自然観察指導員らに「名前なんか分からなくてもいいんです。そこでしかかぐとことできない空気を吸って、風景を見てもらうんです。名前を教えるよりも、この花がこの三瓶のこの場所に咲くのはどうしてかという、その背景を話してあげることの方が大切なのです」と教えられたことがある。

 そんなやりとりも忘れかけていた昨年、県外の登山者から大田市あてに「国立公園に牛のふんがあるのは、いかがなものか」という内容の手紙が届いたと聞いて思い出した。
 私が三瓶山に出掛けるのは、たいてい朝か夕方のどちらか、山に登る、あるいは下りる身支度で登山道をたどる人たちに出会う。
 彼らはすれ違う私にあいさつをするものの、傍らにいる牛たちには目もくれない。まるで「この山を何時間何分で走破してみせるぞ」「走破したぞ」という修行僧のようだ。
 そんな人たちの前に、たまたま牛のふんが落ちてでもいたら、そりゃ大変。観光一辺倒もいいが、市は「こんどその牛に会ったら、そこでうんこをしないようによく言い聞かせておきます」ぐらいは言って欲しいものだ。
 登山者に限らず、花だけが大事、チョウだけが大事と騒ぎ、それが息づく三瓶山を見ようとしない人があまりにも多すぎる。山に登る、植物の種類を覚える、家族で遊ぶだけならほかの山でもいいのではないか。開放感だけを味わうなら人工草地で十分だ。
 私たちが主催する自然観察会は、「草原とその成り立ちについて」解説し、ガイドを養成するまでになればいいなあと思う。きちんとした生業があって、それを誇りに思う三瓶は、地域の人が都会の人にちょっとその生活の一部を分けてあげる。そんなエコツーリズムの場所にしなければならないんだもの。
 登山をしたい人と一緒に登り、牛のうんこに出会ったら、混じった種に来春、芽を出す芝のじゅうたんの広がりを感じてもらうのさ。
 うんこをひっくり返して、今じゃ阿蘇と三瓶にしかいなくたってしまったダイコクコガネでも出てきてごらん。知的興奮は最高潮に達するはず。それだけで、三瓶の何百年の文化、歴史を知ってもらえる。そんな関係ができていれば、登山者が山の中で牛に会おうと「牛君、きょうも山守ご苦労さん」と声を掛けてくれるはずだ。
 定めの松も片腕の松も踏み固められて窒息寸前だし、この際、観光客は車を降りてもらうようにしよう。昔のように駄番小屋をくぐり、ゆっくりと歩いて。一周したい人は環境に優しい木炭周遊バスでもどうぞ。
 もちろん牛が通るときは牛馬有線の立て札通り、人やバスは遠慮してください。牛がどうしても駄目な人は、人間専用の道をどうぞ。時間がない人は次の機会を楽しみに。山に来たら温泉で汗を流し、ここでしか飲めない地酒を飲み、そばを食べてほしいから。
 せっかく私たちの大切な時間を分けてあげるんだから、文化や歴史も勉強し、放牧牛が食べたいならサポーターになってよ。これから山を守っていくにも、牛に助けてもらわないといけないんだから。三瓶の草原は次代に渡すために修景中なり。私は、一日も早くこんな三瓶山になることを願っている。

緑と水の連絡会議代表 高橋泰子 (山陰中央新報 2000/10/21 掲載)


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