石見銀山
(いわみぎんざん)
石見粘山
(いわみねんざん)


世界遺産

石見銀山遺跡

  

 

”世界遺産 石見銀山史跡”

 石見銀山が初めて発見されたのは、今から約700年も前の、1309年と銀山旧記に書かれている。
そしてそれから200年後、博多の豪商神谷寿禎によって再発見されたとされる。
  その後、室町時代の1533年、我が国で初めて灰吹法※1 による銀精錬が石見銀山で開始され、この技術は日本全国の鉱山に急速に普及していった。
 日本で産出される銀のかなりの部分を占めた石見銀は、ソーマ銀※2と呼ばれ、世界と日本の交易の役割の一端を担った。当時の世界の銀の流通の1/3を石見銀が占めたといわれる。
  そして、この銀をめぐって戦国時代には毛利・尼子※*3の争奪戦が行われた。
  江戸時代には人口20万人が住み、天領石見銀山4万8千石として栄え、その後大正時代まで銀が採掘されたが、大正12年休山となった。
  そして、今、21世紀に向かって石見銀山の世界遺産登録を目指し計画が着々と進行し、2000年度には暫定リストに追加された。
 2007年7月2日「石見銀山遺跡とその文化的景観」が世界遺産に正式に登録された。
 それは2007年6月のイコモス(ICOMOSU=International Council on Monuments and Sites=国際記念物遺跡会議) の「登録延期」の勧告を覆す、2段階UPの劇的な登録であった。

          



五百羅漢
 五百羅漢は銀山でなくなった御霊を供養するために三百水岩山をくりぬいて、奥行き8m、幅11mのほこらが作られた。
大森銀山町並み保存地区
 町並みは武家住宅と町家が混在武家屋敷は公開され、映像資料や関係資料を展示する、交流センターがある。
大森代官所跡
 大森代官所は、慶長6年代官大久保長安によって築かれた。 
 慶長5年に関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が、毛利輝元の領国であった大森銀山を天領とした。 
 翌年に大森代官所を設けて、石見一国(後に石見東部三郡)と大森銀山を支配させた。 江戸時代に石見天領の所轄庁として置かれた代官所。
井戸神社
 『芋代官』の呼び名で親しまれている第19代代官井戸平左衛門正明(1731〜33)を祀ってある。
 井戸平左衛門は飢饉の際、甘藷(さつまいも)を栽培することを奨励した。 栽培はうまくいかなかったが平左衛門の死後に彼が導入した甘藷は、農民の松浦屋与兵衛の努力により甘藷の栽培に成功し人々を飢饉から救った。
五百羅漢橋
 県文化財架橋年:1745年
 3基の石橋は銀山の石工技術の高さを表している。

龍源寺間歩
 銀を掘るための坑道を間歩といい、石見銀山には約500あるといわれる。
 龍源寺間歩はいち早く一般公開された間歩である。
 なお、最大級の大久保間歩が2008年よりガイド付きのツアー形式で一般公開された。
清水谷製錬所跡
 明治26年から藤田組により建設されたが、採算が合わずわずか1年半あまりで閉鎖された。
 明治時代の先端技術による製錬所の遺跡。

さひめ湖ダムの山より
 遠くに銀山の山々を望む。


※1
灰吹法は、1533年(天文2)に寿禎が博多から宗丹、桂寿という技術者を伴い朝鮮伝来の灰吹法と呼ばれる銀の精錬法を導入し、以後、爆発的な増産をみた。
この技法により銀の精錬技術は飛躍的に発展した。
やがて、この技術は「生野銀山」や「佐渡金銀山」にも伝えられ、現在でもこの原理が使われている。

※2
石見銀山が昔佐摩村にあったことからサマ→「ソーマ銀」と世界で呼ばれるようになったと言われている。


※3
毛利・尼子氏 

毛利氏:安芸国の国人として土着した毛利氏は安芸国内では有力な勢力になった。
1557年、陶晴賢の傀儡であった大内義長を攻め滅ぼし、大内氏の旧領をほぼ手中にする
1566年、仇敵の尼子氏を滅ぼして、中国地方を領有した。


尼子氏:本拠を月山富田城(現在の島根県安来市広瀬町)に構え、、戦国大名となった一族である。1566年に月山富田城を包囲する毛利氏に降り、戦国大名尼子氏は滅亡した


 
鉱山の町 大森町の町並みを車窓から撮影してみました。大森町並動画AVI

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