雪舟について
 
室町時代の水墨画家・禅僧(1420~1502または1506)。
諱(いみな)は等楊、等揚(とうよう)。
号は雪舟、拙宗、晦庵、雲谷軒。

雪舟禅師銅像

雪舟の生い立ち (1~?歳)
応永27年(1420)、備中国(岡山県)赤浜(総社市)に生まれる。12~13歳頃、宝福寺(総社市)に入り修行する。涙で描いたねずみの話は有名。
宝福寺(総社市) 村上 爽峰「幼少の雪舟」


京都に上る (?~35歳頃)
相国寺に入り、春林周藤に師事し、諱「等楊(揚)」を与えられる。禅僧として修行を積むかたわら絵を天章周文に学ぶ。

相国寺(京都市)

 
山口に移る (35~47歳頃)
享徳3年(1454)、明国(中国)と交渉を重ねていた周防国(山口県)の大名大内政弘を頼り、大内氏の領下の雲谷庵に身を置く。
長禄元年(1457)、元の楚石梵琦(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字から竜崗真圭(りゅうこうしんけい)が雪舟ニ字説をつくり、以前の「拙宗」からこれ以降、「雪舟」と号した。
雲谷庵(山口市)  


南 遊 (明国へ渡る) (48~50歳)
応仁元年(1467)、遣明船に桂庵玄樹の従僧として加わり、中国・寧波(ニンポウ)に上陸。天童山景徳寺で首座(禅僧の首席)に任命される。
北京では礼部院中堂に壁画を描く。《四季山水図》(東京国立博物館)を描く。
文明元年(1469)6月、寧波を出発して帰国する。
雪舟が修行した寧波の天童寺 《唐土勝景図巻》(京都国立博物館)に描かれる
金山寺

九 州 (50~58歳頃)
帰国後、雪舟が中国へ向かった年に始まった応仁の乱は、まったく収まる気配をみせず、雪舟は山口に戻らず豊後国(大分)へ向かった。
文明8年(1476)、画房・天開図画楼を営む。
《鎮田滝図》(焼失)を描く。

寺崎広業《天開図画楼図》(当館蔵)

 
石見を訪問 (60歳頃)
文明10年(1478)頃、石見国(島根県益田市)を訪問し、萬福寺・崇観寺(現・医光寺)の両寺に山水庭を築く。
文明11年(1479)、益田家第15代当主・益田兼堯の肖像画《益田兼堯像》を描く。
 
雪舟《益田兼堯像》重文 (当館蔵)
 
医光寺雪舟庭園(国史跡及び名勝)
武家様式庭園
萬福寺雪舟庭園(国史跡及び名勝)
寺院様式庭園


東 遊 (62歳頃~)
文明13年(1481)秋、美濃国(岐阜県)に旅行し、正法寺(岐阜市・廃寺)において萬里集九と交遊し、《金山寺図》を描いて贈る。

さらに、駿河国(静岡県)や加賀国(石川県)へも足を延ばしたとされる。

山口へ戻る道中、石見国を再訪し、益田兼堯の孫・宗兼の襲禄祝いのために《四季花鳥図屏風》(京都国立博物館)を描いて贈る。
雪舟が再び山口に戻った時期は不明であるが、遅くとも文明18年(1486)には山口へ帰っている。

正法寺跡(岐阜市)
雪舟《四季花鳥図屏風》重文 (複製/原本=京都国立博物館蔵) 

 
安定期~晩年 (67歳頃~)
この頃は、生涯で最も安定した時期で、大内氏の庇護を受け画業に励み、画家としての知名度が上がり、弟子が増えた。
文明18年(1486)、《四季山水図巻》国宝(毛利博物館蔵)を描く。
明応4年(1495)3月、《破墨山水図》国宝(東京国立博物館蔵)を描き、弟子の如水宗淵に与える。
同年9月、雪舟を支えていた大内政弘が没する。雪舟の生活も不安定となるか。
明応5年(1496)、《慧可断臂図》国宝(斎年寺蔵)を描く。

文亀元年(1501)、丹後国(京都)において《天橋立図》国宝(京都国立博物館蔵)を描くか。


終 焉 (83歳)
晩年、益田を再訪し、山寺東光寺(現・大喜庵)に入山し、本尊観世音菩薩の下で禅の修行を兼ねて画の制作に励んでいたが、ついにこの地で、文亀2年(1502)83歳で生涯を終えた。(一説に永正3年(1506)87歳没)
東光寺で亡くなった雪舟の遺骸は崇観寺(現・医光寺)に運ばれ、そこで火葬にふされ雪舟灰塚を建てたと伝えられる。



医光寺境内にある雪舟灰塚
 雪舟禅師墓
(市指定文化財)
大喜庵 雪舟が晩年過ごした東光寺跡に建つ
曹洞宗 元禄15年(1702)創建

益田市立雪舟の郷記念館
〒698-0003 島根県益田市乙吉町イ1149

TEL/FAX : 0856-24-0500
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