稲 作 日 誌


【3月27日】
 稲作のホームページを作るため、耕作前の田んぼの写真を撮影しておく。家の向かいの山の上から撮ったら、田んぼと我が家を何とか1枚に収めることができた。もっともデジカメではないので、現像するまではちゃんと写ったかどうかは確認できない。やっぱりデジカメがほしい。
【3月28日】
 せっかく昨日写真をとったのに、突然母が「家の前の田は、今年は作るのを止めようか」と言い出した。腰やら足が痛いのだそうだ。せっかくの計画がだいなしかと思ったが、我が家にはもう一ヶ所田んぼがあるから、そこを対象にして作ればいいと思い、「それじゃあ止めんさいや」と応えておいた。写真はまたとればいい。
【4月3日】
 やめるはずだったのに、仕事から帰ると家の前の田が起こしてある。母に「田が起こしてあるが、やめたんじゃなかったん?」と聞くと、近所の人や毎年作業をやってもらっている人から、「あがあ言わんこう作りんさい。」と言われて、やっぱり作ることにしたそうだ。そういえばここ5年ぐらい、毎年同じことを繰り返している。そういった経過を経て、今年も家の前の田を作ることになりました。
【4月9日】
 午後、母が「ちょっと見てくれ」というから何かと思ったら、籾を消毒するので、濃度を計ってほしいと言うのだ。バカ苗病とかにならないように、播種する前の籾を消毒しなければならず、みるとそのための農薬が買ってある。「浜覚肥料」で買ったそうだ。説明書とおりに水で薄めて、その中にネットに入れた籾をつける。丸1日つけることになりました。
【4月13日】
 朝、また母が「ちょっと手伝って」という。朝まで湯につけておいた籾を運ぶと言うのだ。消毒された籾は風呂場でお湯が入った発泡スチロールの箱に入れられて一晩を過ごし、すっかり水を吸ってふくらんでいる。もちろん発芽を促すためで、小学校1年生のときに蒔いたアサガオの種を一晩水につけておいたのと同じ原理だ。ふくらんだ籾は今日、育苗用の箱に蒔かれ、発芽を迎えることとなる。
【4月16日】
 家の横の畑の一角に、ビニールで囲まれた固まりができている。買ったばかりのデジカメで撮影するために頼んであけてもらうと、黒い土(なぜかグリーンソイルと言う。商品名かな?)が敷き詰められた箱の中にところどころ白いものがある。これが発芽したばかりの米の芽だ。
 本格的な農家では電熱器つきの「育苗器」という装置に入れて発芽を促すが、我が家にはそんな機械はないため天日が頼り。写真を写し終わるなり「稲が風邪を引くから」と、早々にまたビニールで囲む。あまり発芽がよくないらしい。我が家も数年前までは苗を購入していたが、数年前から母が自分で育苗し始めた。「苗を立てる」というのだが、母はまだ苗立ての素人だ。
【4月22日】
 稲の苗が育ってきたので、「緑化」させるため畑に広げる作業をおこなう。土曜日で学校が休みの子供たちに言うと、大喜びで手伝ってくれる。うちではこうやって畑に広げているが、田んぼに広げる家もあるそうだ。そうすれば潅水をする手間が省けるのだそうだが、畑の方が暖まりやすく稲の生育には良いのではないか。
【4月25日】
 夕方、仕事から帰ると、母が「あぜ塗り」をしていた。漏水防止とあぜを利用して豆などを育てられるようにする作業だ。「はあ、こがあなことをするものはおらん(もうこんなことをするものはいない)」と母が言うように、今では「あぜ波」という塩ビ製のトタン板のようなものをあぜに埋めて漏水防止をするのが一般的で、このようにあぜ塗りされた田はあまりお目にかかれない。そういえば、今は亡き祖父も、「田にも化粧をしてやらにゃあ」と言って黙々とあぜ塗りをしていた。

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【5月1日】
 みなさんは、米の生産調整(いわゆる『減反』政策)についてご存知だろうか。30年ほど前から始まった政策は、何度かの変更を経て、今では「水田農業経営確立対策」という名称になって続けられている。これについてはいろいろ言いたいこともあるが、じつは私はこの減反の町内の推進員になっていて、今日、今年度の実施計画書を集めて回った。
 私の町内には40軒弱の家があり、ほとんどの家が自家用の畑ぐらいは耕作しているが、米を作っているの農家は、わずかに4軒しかない。10数年前には10軒近くあったので、10年間で半減したことになる。しかもその耕作面積はどこも10アール(1反)そこそこだ。零細農家を指す3反百姓という言葉があるが、どの農家もその3反百姓にさえ達していないということだ。
 そんな「1反百姓」にも否応なしに減反の目標はおろされてきて、水田面積の40パーセントを転作しなければならない。これでは飯米さえ確保できないことになるが、既に米作りをやめた農家が田んぼで野菜を作ったり果樹を植えたりというのも「転作」となるので、町内全体では何とか目標に近い面積が出てきた。私の家の苗を立てている畑も元は田んぼで転作の実績に入っている。
 サラリーマンをしながら米も作れていいと思われるかもしれないが、そんな兼業農家にも、厳しい減反政策の風は吹き付けている。
【5月3日】
 畑と違って田んぼには大量の水が必要で、しかも稲の生育と作業にあわせて随意に調整できることが望ましい。うちの田んぼの場合、隣を流れる水路から水を取っているが、田んぼの用水路として作られた水路ではないため、取水の作業がちょっと面倒だ。
 今日こうやって
水路の水をせき止めて、水路の横にある穴から水が田んぼに入るようにする作業をした。この作業を「イデを堰く(せく)」というのだけど、イデとはどういう漢字を当てるのかわかりません。
【5月13日】
 我が家には耕耘機(こううんき)がないので、代掻き(しろかき)は近所のおじさんに頼んでやってもらっている。今日か明日に代掻きをするということだったが、午後、所用で出かけて帰ってみると、見事に、代掻きがしてあった。おとといの雨でイデをせくのに使った土の入った肥料袋が流されたため、水路から水が入らず、下の水路から母がバケツで水を汲んでは田んぼに入れたそうだ。
 代掻きが終わり、苗も順調に育っているので、これで田植えの準備は完了。明日は代掻きをしてもらったおじさんの家の田植えに行くので、我が家の田植えはあさってにすることになる。
【5月15日】
 いよいよ今日が田植えだ。残念ながら(?)私はどうしても仕事を休めないので、近所のおばあさんを雇ってきて、母と二人で植えることになる。
 家の前の田は後回しにして、まずはもう一カ所の田んぼを先に植えるという事なので、出勤前に出かけて写真だけはとっておこう。田植えの様子は
こちらをどうぞ。
 夕方帰ってみると、家の前の田もちゃんと植えてあった。これでひと安心だ。
【5月21日】
 田植え以来うちの田んぼでは特に作業はないが、母は毎日のように近所の農家の田植えの手伝いに行っている。うちの地区は零細農家が多く、まだまだ手植えが多いので、どうしても「早乙女」たちが必要なのだ。でもそれも今日で終りで、田んぼの作業もひと段落つく。
【5月30日
 その後、特に作業はなし。おコメの場合、農繁期(田植え前後と、収穫期)以外は作業が少ないので、兼業農家でも栽培ができるのです。

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【6月】
 その後、特に作業はないと思っていたら、多少はありました。草刈を6月に2回ほどしたようです。昼間の、私が仕事に行っているときにするので、写真に取れなくて、つい紹介し損ねてしまいました。
【7月13日】
 7月には言った頃から、「中干し」に入りました。「中干し」の目的には、「1.よけいな茎を発生させないようにする。2.根に酸素を与え、健全にする。3.田の表面を固くし、秋の機械作業をやりやすくする。というようなことがあります。」(以上、人の説明の受け売りでした)
 「中干しのやり方は、1.茎の数が一番増える頃に、2.1週間くらい水を与えず、3.田の表面に軽くヒビが入るくらいに干します。しかし、茎が一番増える頃を迎えてしばらくすると稲の穂ができてきますので、この頃までには干すのを終わりにしなければなりません。」(同)  ところで、今日は「穂肥え」をやりましたが、これは稲穂の育成のための肥料で、しかも水に溶けて利くため水がないといけないので、数日前で「中干し」は終わって、水を張り、今日の施肥となった次第です。
 「穂肥え」を早くやりすぎると、穂でなく「木」ばかり大きくなるので収穫前に倒れやすくなります。特にコシヒカリは倒伏しやすいので、「穂肥え」をやる時期については気を遣うと、母が申しておりました。
【8月以降】
 日記を書くのを忘れていました。作業の様子は、稲刈り・脱穀の項をご覧下さい。

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