-益田小学校周辺名所-

医 光 寺

天石勝神社

三宅御土居

住吉神社/七尾城跡

萬 福 寺 -Manpukuji-

時宗益田道場清瀧山、浄光院萬福寺は、もと安福寺と号し、石見国中州浦にありました。応安7年(1374)益田七尾城11代目の城主益田越中守兼見公によって現在の地に移建して萬福寺と改称されました。 慶応2年(1866)益田戦争の際に福山、浜田両藩の陣営となり、兵火の為に総門は焼失しましたが、幸いに本堂、庫裡はその類を及ぼすことなく、現在の庫裡は昭和58年の水害の被害を受け、同59年改築されました。 昭和46年6月益田市の史蹟に指定されました。
(写真は総門)

本堂は南面、桁行7間、梁間7間、一重寄棟造、桟瓦葺、四方廻椽付、建坪98坪(324㎡)、設立年代は詳かではありませんが、正和年間(1312~1316)に再興したものを、応安7年(1374)に、国守益田越中守兼見が今の地に移転建造したものを現在の本堂であると伝えられて、明治37年2月18日重要文化財の指定をうけました。 その形式から見ると、当時のものを見て差し支えなく、手法の穏静簡古さは見るべきものがあります。昭和9年までは入母屋造りでありましたが、同年行われた修理の歳に旧制にのっとって、寄棟造に復元されました。
(写真は本堂)

この庭園は、文明年間(1469~1486)画僧雪舟等揚禅師の作成したものでそれにふさわしい古風な庭園手法が認められて、昭和3年来、文部省からの国の史蹟名勝に指定されています。 面積は1421㎡(430坪)で、書院の正面の庭と見られ、奥にゆるい築山を横たえ、その中腹に石組を築きその下に池を掘り書院前面は平地とした鑑賞庭園で、中央の小高い石組の集団がこの庭の重点となっています。これらの集団が須弥山(仏教の世界観)の表徴とみられ、あるいは曼荼羅(悟りの境地)さえ連想させる。安定した石の捉え方、無駄のない石のくばり、巧みな地割はさすがに類の少ないもので、非凡の名手の残したこの作品は、現代人を魅了せずにはおかないでしょう。
(写真は庭園)