雪 舟
雪舟の生い立ち
 室町時代の画僧(1420~1506)。諱(いみな)は等楊、等揚(とうよう)。号は雪舟、拙宗、晦庵、雲谷軒。備中国(岡山県)赤浜(総社市)に生まれ、幼時、宝福寺で涙のねずみを描いた話は有名。幼少にして上洛し、相国寺に入り、禅僧として修行を積むかたわら絵を周文に学んだ。

村上 爽峰「幼少の雪舟」

雪舟と名のる
 寛正6年(1465)ごろ元の楚石梵琦(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字から竜崗真圭(りゅうこうしんけい)が雪舟ニ字説をつくり、以前の「拙宗」(せっしゅう)からこれ以降、「雪舟」(せっしゅう)と号した。





明国へ渡る
 その後、明国(中国)と交渉を重ねていた周防国(山口県)の大名大内政弘を頼り、大内氏の領下の雲谷庵(うんこくあん)に身を置き、明国へ渡る機会をうかがっていたが、応仁元年(1467)ついに、遣明船(けんみんせん)に便乗して入明。寧波(ニンポウ)では四明天童第一座(しめいてんどうだいいちざ)に推(お)され、北京では礼部院に壁画を描いた。




雪舟が修行した寧波の天童寺

日本水墨画の確立
 文明元年(1469)帰国後、大分で天開図画楼(てんかいとがろう)を開き、同10年には益田を訪問し、「益田兼堯像」(ますだかねたかぞう)、「山寺図」、「花鳥図屏風」を描き、萬福寺、崇観寺(すうかんじ)の両寺に山水庭を築いた。同18年、名作「山水長巻」を制作し、明応4年(1495)には「破墨山水図」、翌年は、「恵可断臂図」(えかだんぴず)を描いた。




雪舟が「山水長巻」を描いた
山口の雲谷庵

終 焉
 晩年、益田を再訪し、山寺東光寺に入山し、本尊観世音菩薩の下で禅の修業を兼ねて画の制作に励んでいたが、ついに、この地で永正3年(1506)87歳で、あるいは文亀2年(1502)83歳で生涯を終えた。東光寺で亡くなった雪舟の遺骸は崇観寺(医光寺)に運ばれ、そこで火葬にふされ雪舟灰塚を建てたと伝えられる。



医光寺境内にある雪舟灰塚
 
ますだしりつ せっしゅうのさと きねんかん
益田市立雪舟の郷記念館
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