温光寺 薬師堂・地蔵堂

温光寺は伊藤家の私寺です。
境内には、薬師堂と地蔵堂が建立されています。薬師堂には薬師瑠璃光如来を本尊に脇侍日光、月光菩薩を安置。地蔵堂には温泉の源泉が大地震(安永の大地震)で埋没し、復旧の源泉堀上の時に出土されたと伝わる石仏(地蔵菩薩)、木像釈迦如来、木像十王神を祀っています。山号を医王山と云い、医王山温光寺といいます。また、伊藤家文書によると温泉を開湯した伊藤重佐が盤上に医王を調えたと記されています。

薬師堂は一名温光寺と言いますが、江戸時代になってからは温光寺という寺の名で公の記録にはあらわれません。温光寺という寺の名は弘治元年(1555)の「温泉記」、天正15年(1587)に細川幽斎が温泉津に来た時の町衆会合に「温光寺」が参加したとする記録があります。

貞享2年(1685)、湯屋庄兵衛は温泉津町の舟番所役人に、寺が破損したので再建立したい旨の願書を提出しています。願書には温光寺のことを「湯屋薬師堂」と書いてあります。また、同年、釈龍吟という人の書いた由緒には「この堂は昔『医王山温光寺』といい、弘治年中(1555~1557)に再興された」と記述されています。
温泉はしばしば「医王」の字を用いますが、それは温泉が療治と深く関係があると考えられており、古くからこの温泉も薬湯とされていたのです。

元禄16年(1703)、薬師堂に和歌山高市郡奥山から来た真悦という廻国の六部(六十六部)が大乗妙典を寄進しています。

宝永4年(1707)8月4日8ッ時、大地震がおこり温泉は大被害を受けました。温泉の湧き勢が半分になり、調べてみると湧き口が以前よりずれていたので、温泉を普請することになりました。御役所からは「温泉の普請は大切なこと。とりわけ、国の宝として、捨て置くべきではない。」と言われ、御林松木の払い下げを受け、宝永7年(1710)に薬師堂が再建されました。その時の常什物注文の記録が残っています。この記録に薬師堂は「医王山薬師堂」と記され、やはり山号は「医王山」となっています。堂の再建に当たっては、資金が不足したため、湯屋庄兵衛は大森代官所に拝借銀を申請しました。代官所は銀一貫目を貸しわたし、湯屋庄兵衛は宝永5年(1708)から5ヶ年の年賦でこれを返済しました。 下記は『宝永6年の上納書(翻刻)』です。

上納申銀子之事
一、丁銀弐百目御拝借銀之内
右は湯屋庄兵衛御拝借銀五カ年賦仰せ付けれら子年分上納仕り候、以上
宝永六年丑二月二日
温泉津湯屋庄兵衛
同 庄屋八郎右衛門
御銀蔵
御奉行衆
御理り申上候

享保6年(1721)、備後の片岡喜右衛門は永代燈明代として、銀百匁を寄進しています。この銀の諸請取状には湯主湯屋庄兵衛と宿油屋伝三郎が判を押しています。さらに、備後国庄原の忠左衛門が十二匁を合力し、宿主内藤半四郎が請取状を書いています。

安永6年(1777)、温泉屋の当主重蔵は薬師堂と地蔵堂を再建しています。 地蔵堂の建立は大工安江磯右衛門が行い、1日96文で49日間かかっています。当時、誰が何日働いて、いつ何を行ったのか、どんな資材を用い、費用はいくらかかったのかが詳細に記録され残されています。堂の建立は7月25日に釿始めの式を行いましたが、龍御前の拝殿の造立があり、仕事が遅れ9月3日よりとりかかり10月19日に出来上がり、遷仏は9月23日に行ったと記述があります。

無断での転載を禁止させて頂きます。
泉薬湯 温泉津温泉 元湯