元湯の歴史 その前に

温泉屋(ゆや)伊藤家には1500年代から記録されている古文書が数多く保管されています。それらの古文書の一部を石見銀山が世界遺産に登録される際、歴史文献調査官としていらした元筑波大学教授田中圭一博士らに指南を受け、19代湯主伊藤昇介が歴代湯主の伝承を交え文字に起こし史料として遺しました。
情報化社会の現代において、インターネットが普及し、マスコミのみならず、個人が自由に情報を発信できるようになりましたが、利便性が高まった反面、エビデンスのない誤情報が一気に拡散され、それがあたかも真実かのように伝えられ、歴史が湾曲して伝わっていく状況があります。歴史とは過去に起こった実際の出来事を伝えるものであり、自分たちの都合の良いように後から手を加え作り変えて伝えるものではありません。

「正しい温泉津の歴史、正しい温泉屋(ゆや)の歴史を後世に伝える義務があなたにはある」との田中博士の言葉を受け、19代湯主は田中博士とともに一冊の本を刊行しようと制作に取り組んでいましたが、志半ばで倒れてしまいました。
今回、田中博士と19代湯主の遺志を継ぎ、制作済みの史料の中からいくつかの「エビデンスのある本物の温泉津の歴史」「元湯の歴史」を公開することにしました。

西暦900年、平安時代以前から湧き続ける源泉
千古の歴史を誇る「泉薬湯」のはじまり

元湯温泉の出泉について、「温泉記の釈文」には「石州温泉津の出泉は開闢興基未だ何の代と言うことを詳らかにすること能わず」とあります。しかしながら、平安中期の承平年中(931~938)の辞典「倭名類聚抄」には『石見の国温泉郷の内に「温泉のある」』として温泉と津の所在が確認されています。温泉津は平安時代(900年以前)から温泉の出る土地として知られており、このことは900年以前に温泉が涌出し、900年以前の地殻変動を伴う大地震が温泉涌出の起因になったと考えられます。この地域で古代からの温泉を伝えるところが他になく、現存する多くの史料や識者の研究報告で元湯温泉の出泉の歴史が平安時代まで遡る可能性が高いことから「千数百年の歴史ある湯」「千古の湯」として往古から現在に至るまで多くの人々に親しまれています。

また、初代(中世)より今日まで「温泉屋ゆや」を相続している伊藤家には温泉の涌出、温泉の開発、開発の発願、村の草創、村の発展を伝える二つの史料「温泉(由来)記」「温泉記の釈文」があります。温泉屋ゆや直左衛門(14代湯主)が天保2年(1831)、江戸表御老中へ差出した文書に「私温泉場之儀一村草創藻之儀二而蒙御免数年役銀御上納仕永続仕候」「私温泉場之儀者一村草創起立所持致数年来温泉役銀御上納無滞相続仕来り候」(原439)と書き、「先祖の温泉場開発は村誕生の始まりである」ことを述べています。

元湯の歴史

19代湯主伊藤昇介が当温泉利用者向けに2000~2010年頃作成、配布中のリーフレット。
未完のものを含め、37題+番外編があり、それらの中から27題を掲載。

初代より500年にわたり代々受け継がれている湯主の記録。
それぞれの時代で温泉屋の存続に関わる危機が勃発。その記録が詳細に残されています。

参考文献・参考史料(一部紹介)

年号・西暦・月日 作成者 摘要
原500温泉(由来)記 年不詳 芸陽廣島城沙門惟素 弘治元年三月と年号あり
温泉記の釈文 年不詳 芸陽廣島城沙門惟素 弘治元年三月と年号あり
原410温泉津湯役請取書写 年不詳   永禄3(1560)~承応元年(1652)まで
原663湯役銀請取状 元亀2・1571 児玉成康 茜屋惣兵衛宛
原685温泉津湯役請取 慶長5・1600・11月30日 三源蔵他2名 茜屋惣兵衛宛
原439温泉一件ニ付江戸表江差上候願書控 天保2・1831・7月 温泉主直左衛門
原387温泉主治考 天保14・1843 中原周治 平光胤再録
原389温泉効記全 明和9・1772 中原周治  
原46入湯人覚帳 文化14・1817・1月 温泉屋真左衛門  
原97入湯御客国所名前帳 弘化4・1847・1月1日 いとうかう一良  
原577湯屋屋敷絵図 安政6・1859・1月    
原583湯屋温泉場絵図 年不詳    
原483定(入湯につき) 元禄16・1703・8月 役所  
原489定(入湯規定・鍵湯取立につき) 享保13・1728・1月 湯主甚兵衛  
原478大森屋敷よりの入湯者規定につき書状 天和3・1683・1月 由比長兵衛 湯屋庄兵衛宛
原465定(温泉につき) 年欠 役所  
原461鍵湯定 年欠    
原457定(元禄~享保年間、温泉につき)      
原468入湯宿定書 安永5・1776・2月 つわのや権六他6名  
原447定書之事 寛政6・1794・12月 薬師堂はつ他6名 入湯宿一同引合兼渡世につき
原943坂名付ケ 年不詳    
原爆被爆者と温泉津 1977・12月 別府原爆センター 八田秋 第30回日本温泉科学会大会号
狸の池のお話(絵本) 2022・4月   元湯温泉縁起創作童話絵本
興亜少年隊 昭和16・1月30日 神根哲生 温泉縁起創作童話
藤沢薬報 昭和34年2月    
長命館のいろいろ写真館      
揮毫『龍馬』の扁額 昭和15年 新谷道太郎  
子宝記念母子像建立時の新聞記事 昭和50年    
元湯と原爆症に関する新聞記事 昭和30年頃    
新谷道太郎翁胸像建立時の新聞記事 昭和42年    
浅原才市参考文献      
新谷道太郎参考文献      
繫昌温泉番付表 明治22年8月 正田治兵編纂  
飲泉塔吐泉龍建立時の新聞記事 昭和63年    

敷地内散策

元湯の敷地内には、元湯と歴史を共にした縁深い建造物や造形物があります。
それぞれの創られた歴史的背景に触れ、先人たちの偉業を知り、込められた願いを未来につなげてみませんか?

医王山 温光寺薬師堂

建立 弘治元年(1555)以前
数々の霊験を得た初代伊藤重佐が建立したお堂。盤上に医王薬師如来を祀り、盤下に本願功徳の徳化を流し、温泉場を開発、諸人の疫苦救済を祈願した。

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医王山 温光寺地蔵堂

建立 安永5年(1776)
現在元湯の源泉はこの地蔵堂の下にあり、耳を澄ますと湯の沸く音が聞こえてくる。

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狸の池

薬師堂裏の崖上にあるのが、狸の池発見伝説にも登場する古代の源泉跡。
崖の亀裂に見られる跡から、かつてここに温泉が流れていた事がうかがい知れる。

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湯の華石

湯の華石は、湯の華の累積が岩を形造り、木の葉や虫の跡が交じり合って年代の深さを物語っている。温泉前の畳一枚大の湯の華石は万年石と呼ばれている。

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原爆症適應記念碑

昭和38年(1963)竣工
『霊泉である元湯が原爆後遺症にも適應することを永遠に記念する』ため、広島原爆被爆者の方々の浄財を受け造られた記念碑。

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長命館

明治2年(1869)建立 木造2階建ての本館、大正11年(1922)建立 木造3階建ての別館の2棟からなる。元湯の湯治宿として疫病に苦しむ多くの人々を受け入れてきたが、平成30年(2018)12月31日、老朽化の為閉館。

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飲泉塔 吐泉龍

昭和63年(1988) 4月竣工
龍尾に宝珠を抱え込み、とぐろを巻いて宝珠を天高く持ち上げている姿は、大切な温泉源を守護する姿を表している。

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子宝記念母子像

昭和50年(1975) 1月竣工
終戦直後の昭和24年、栄養失調や過労から母乳不足に悩む農村の母親たちが入湯し、乳の出が良くなった事から建てられた。

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妙好人 浅原才市座像

昭和56年(1981) 1月建立
18代湯主伊藤恕介の遺志を継ぎ、19代湯主伊藤昇介が当町有志の方々の浄財も受け建立に至った、昭和の妙好人、石見の才市の座像。

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明治維新の志士
新谷道太郎翁の胸像

明治維新後温泉津町湯里、瑞泉寺の養子となり、17代湯主伊藤為太郎と親交が厚く、晩年の一時期を伊藤家の借家(現在の胸像建立地)で過ごした。

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