元湯温泉と長命館
~戦後50年の湯治温泉と湯治旅館の記録~
江戸末期、温泉津元湯温泉で湯治をした利井明朗翁は「これやこの 岩のいで湯は みなひとの 命を延ぶる 薬なりけり」と一首を残しており、元湯温泉は万人の「延命の薬」と讃歌しています。
温泉の歴史を見るに、洋の東西を問わず、温泉は「薬湯」であり、故に「治癒の水」として神聖化され、ヨーロッパでは保養文化、日本では湯治文化を作り上げたと19代伊藤昇介は記しています。
戦後50年、日本の温泉文化は湯治文化から洗浴、温浴、湯水浴にまで変容してきました。東北地方には現在でも伝統的は湯治文化を持った湯治温泉、湯治旅館があり、昔ながらの庶民的な雰囲気を醸し出しているところがありますが、山陰においては、湯治温泉、湯治旅館を標榜しているところは少なくなりました。元湯温泉は、数少なくなった伝統的湯治文化を受け継ぐ古湯です。
以下は、戦後50年の湯治・保養の温泉「元湯温泉」とその旅館、湯治・保養の宿「長命館」の記録です。
昭和20年
敗色濃い日本は国民総動員本土決戦体制に入っていました。長命館は国に徴収され、江津にあった造兵廠に動員された女子学生の宿舎になっていました。8月15日終戦。この日を境に日本は大きく転機し、今日の社会変容、人間の変質が始まりました。
この頃、敗戦国の日本は極度の食糧不足とインフレ物価高の中で、失業者、引揚者、疎開者を抱え戦後復興に懸命でした。温泉津の町の人口は都会や海外からの流入で急激な増加をきたし、町民の生活は貧困を極めました。戦後のインフレ、社会の変化で温泉経営は困窮していましたが、社会事業家であった18代伊藤恕介は、入浴料金の値上げはしませんでした。昔から入浴料金は豆腐一丁の値段と同じであると19代伊藤昇介は聞かされていました。当時地元の人の入浴料金は、年2回払いで盆と暮(年末)でした。昭和23年頃の地元の人の料金は4人家族で年120円、昭和29年の外来者料金は、1回8円、地元料金は1回2円でした。この入浴料金は昭和40年頃まで続きました。
昭和24年
当時の食糧事情を反映して、栄養失調、過労から母乳不足に悩む農村の若い母親が多く、18代伊藤恕介はその母親たちのために、長命館を農村母子保養館として開放しました。毎日、赤ん坊を連れた母親がやって来て、元湯に入り休養をとったおかげで母乳がよく出るようになり喜ばれました。
終戦当時の湯治客はお米持参でした。汽車は蒸気機関車で鈍行各駅停車。車内は買い出しリュックの乗客で満員。湯治客の70~80%が広島県からでした。湯治客の多くが遠路、長旅をして来温していました。湯治客にとって14日間、21日間という湯治保養は、活きの良い日本海の魚料理を毎日食べることができて、当時としては最大の楽しみであったようです。後年、この頃に湯治に来ていた客の一人が、「体を治しにきたのに酒を飲むとは‥」との理由で、長命館ではある時期、晩酌の提供をしていなかったと教えてくれました。また、当時は浴場で石鹸を使って体を洗うことは入浴者が互いに禁じあっており、上がり湯は湯口の湯を使っており、水道設備がついたのは昭和30年代に入ってからでした。
昭和20年代の湯治場風景はというと、真夏の昼下がり、かしましい蝉の鳴く声だけが聞こえてくる、人気のない閑散とした空白の時間が時々ありました。この時間に、シオカラトンボ、オニヤンマ、スズメ、ハトなどが、風通しのために開け放しにしてある入り口を抜けて浴場に現れ、誰も入っていないお湯と戯れ遊ぶような光景もみられました。また、真夏の午後は夕方まで人気が少なく貸し切り状態の時があり、この時間は洗い場で真裸の体を仰向けに寝て、桶を枕に午後の仮眠をとっている常連客の姿もあったものです。
昭和29年12月
18代伊藤恕介は島根県を相手に町営「藤の湯」温泉の動力揚水装置許可取消訴訟を起こしました。当時、元湯源泉湧出量50㍑/分だったのが30㍑/分に。さらに30㍑/分が20㍑/分に激減し、元湯温泉は営業不能に陥りました。急遽、浴槽の縮小工事を2度にわたって行いましたが、昭和30年の冬季営業は出来ない状態に追い込まれました。
昭和32年
広島原爆被爆者唐立キミ子氏らによる元湯温泉湯治体験報告によって、元湯温泉の医学的研究が本格化しました。九州大学、広島大学、岡山大学の温泉医学研究の諸先生の隣地試験が始まり、第1回30名、2週間、原爆被爆者の湯治が長命館で行われました。宿泊費用無料で引き受け、研究に全面的に協力しました。
結果は、九州大学大分温泉治療研究所所長、八田秋博士が「白血球が正常に戻り放射線による障害、神経痛に効果がある温泉」と発表。学会で温泉療養、元湯温泉について注目が集まりました。
昭和42年原爆被爆者有福温泉療養研究所が発足するまでの、昭和31年から41年の11年間に元湯長命館で湯治を行った被爆者は7,316名、年間平均670名でした。日本の原爆被爆者温泉保養所並びに療養研究所の設立のきっかけとなったのが元湯温泉であり、今日の温泉療養、湯治の草分け的な役割を果たしたのが、18代湯主伊藤恕介でした。しかしながら、原爆被爆者温泉保養所の当町への設立については、当時の町議会、旅館組合が建設に反対し、実現はなりませんでした。
昭和32年7月
療養温泉としての元湯温泉、その宿泊施設としての長命館は今までの功績に対し、日本温泉厚生協会より表彰並びに感謝状を授与されました。
昭和42年8月
元湯温泉は老朽化の為、取り壊し、新たに建て直しました。
昭和51年
三江線が全線開通し、広島経済連の温泉津温泉入湯団を受け入れました。昭和51~53年、春と秋の2回、3泊4日の湯治です。長命館をはじめとする湯治旅館5~7軒に分宿。総延宿泊人員数は13,000名。1団体150~200名位。当時は一堂にこの人数を収容する会場がなかったため、近くのお寺の本堂を借りて、昼食兼歓迎会を催し、湯治旅館の女将さんや従業員のかくし芸、団体客の飛び入りを交えて親近感の濃い接待が催されました。
この頃の長命館の様子はというと・・・、朝4時半、ミシッミシッと、薄暗い空気の向こうで階段を登ってくる木板を踏むキシミ音。「温泉を開けます・・・温泉を開けます・・・」と低い男の声が廊下の障子の向こうから聞こえ、部屋の前を通り過ぎていく。元湯温泉開館の案内です。長命館に泊まっている湯治客は布団を跳ね除け、我こそ一番風呂と、先を争って元湯温泉へ急ぐ。これが長命館湯治客の朝の始まりです。
朝の一番風呂は、湯口から絶えず流れ出ている温泉が浴槽を満たし溢れている状態で、湯面には白い結晶状の薄い膜が出来ています。湯の色は、日中より濃い赤みがかった茶褐色で、まさに自然が贈ってくれた薬湯そのものです。以前、夏休みになると必ず避暑に来ていた東京の某大学生が「このお湯には何か力があるように思います。一番風呂に入ると黄色い色がだんだん薄くなっていくんですよ。黄色い色が体にしみ込んでいる。すごいですよね。このお湯は。」と話してくれました。
元湯温泉の温泉祭りは、江戸時代には6月吉日とありますが、今日では毎年7月7日(19代伊藤昇介在位までは7月7日・8日の2日間)に行われています。地元では「お
現在は7月開催の元湯温泉の温泉祭りの他に、商工会主催の温泉津温泉夏祭りが8月に開催されています。かつては、温泉津温泉とは温泉の固有名詞として使われていましたが、昭和50年代後半頃から、観光地の呼称として温泉津という地名が温泉津温泉と呼ばれるようになりました。8月に行われる観光夏祭りと江戸時代から続いている7月に行われる温泉祭りは、祭りの主旨が異なり別のお祭りです。
温泉の守護尊を祀る薬師堂は、線香の煙が絶えることなく流れていました。お堂の縁の下には、温泉によって病状が回復し、不要になった松葉杖が積み重ねて置かれていました。お堂の中には、湯治客が奉納した絵馬、歌、額、仏像、燈籠など、江戸時代から今日まで数々の功徳のお礼の品が納められています。
長命館の廊下や柱には、湯治客が作った温泉讃歌、湯治讃歌ともいえる歌がところ狭しと掲げてあります。以下、抜粋。
- 温泉の 湯ノ花の玉が浮く
朝の一番風呂に 身を沈め
思わず出てくる 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏- 桜花がむかえる ゆの津の温泉
六根清浄の波の音 阿弥陀のお慈を
湯のぬくもりに 極楽浄土の夢をみた- ありがたき お薬師さまにみちびかれ
やまいいやせし 長命のやど- 新春の ゆのつの里に 友と語る
たのしき日々を 一生忘れじ- 古きよき 昔偲ばる湯の宿に
湯治 ご縁 幸に思ふ- いつ来ても うれしかりけり この宿は
人のまことと 湯心地のよさ- 静かなる 温泉津の元湯に日を重ね
明日 去りがたき 天領の地を
歌の形式、作品の良し悪しではなく、元湯温泉、長命館で湯治体験をした人々の心の声をお聞きいただければと思います。
昭和50年9月
18代伊藤恕介は元湯温泉の源泉を県文化財(天然記念物)に指定申請しました。
「元九大名誉教授松浦新之助博士の九大温泉治療学研究所の原爆被爆者における血液検査の所見では「障害の悪化防止に作用することはほぼ確実である。」元大阪教育大名誉教授伊藤祐一博士は「マグネシウムとナトリウムのバランスが理想的で、増血作用が盛んになる。」元日本温泉科学会会長大島良雄博士は「既設の温泉が人工温泉になっている時、温泉津温泉元湯はいまのうちに保存すべきだ。」等の専門家による示唆を受けたのがきっかけです。18代伊藤恕介は「自然開発が進んでいるとき、泉脈破壊といった事件の発生を防ぎたい。生きている温泉として、その姿を守りたい願いもある。ユニークで卓越した効用を持つ温泉であるという専門家の示唆によるものである。」とこの申請理由を述べています。(毎日新聞)
後年、19代伊藤昇介も「50年経過した現在でも『治癒の水』として極めて高い効用を維持しているこの温泉は、天然記念物としての価値も、社会的貢献の高い実績も持っている。」と記しています。
昭和53年7月6日~8日
日本温泉科学会、第30回大会を温泉津で開催。大会記念講演で、我が国の原爆被爆者温泉療養や湯治の普及に尽力を傾けたことに対し、18代伊藤恕介に敬意と感謝が表されました。
昭和54年12月3日
18代伊藤恕介死去。
昭和57年8月9日~23日
19代伊藤昇介、欧州温泉地・保養地(ドイツ・スイス・イタリア・フランス)視察研修参加。
昭和60年12月
医王山温光寺薬師堂 改修。万延元年(1860)より125年目。
昭和61年10月18日~31日
19代伊藤昇介、国際温泉気候療養連盟(F-TEC)総会、欧州温泉地・保養地(アルジェリア・スペイン・フランス)視察研修参加
昭和63年4月
湯治の普及、飲泉の普及、温泉利用の見直しを目的として、元湯温泉飲泉塔「吐泉龍」を建設。
平成6年12月
温泉津町保養地基本構想「保養地・温泉津」を町長に答申。
全町を保養地としてとらえ、山間部・海辺部・市街地・温泉周辺・港周辺のそれぞれの自然、地形、歴史、文化、生活に基づいた環境整備を行い、生活の安定基盤の確立を当面の課題として、各地の将来展望及び公共施設も保養地とし一体とした共通目標をうちたてたもので、第一段階は開発からではなく、周囲の整備から始めるというもの。
平成7年6月
元湯温泉源泉保護管理のため監視装置を設置。
平成9年12月1日~5日
19代伊藤昇介、国際温泉科学会 第33回箱根大会参加、韓国温泉地視察。
終わりに・・・・
戦後50年、温泉に関して申し述べるなら、温泉に対する考え方、接し方は晴天の霹靂である。終戦までは、温泉は傷病軍人の療養、一般人の湯治・保養の「治癒の水」「薬湯」として考え、接してきた。一般にいう風呂とか銭湯、わかし湯とは区別していた。現在は、内湯、外湯、露天風呂、大浴場、公衆浴場、大衆浴場、家族風呂などが温泉の代名詞となっている。「温泉とは、地中から湧出する温水、鉱水及び‥‥」と定められているが、建物、施設に転意し、それが定着しつつある。お湯(温水)であれば温泉だと思っている人も少なくない。湯治温泉でも平気で水着のまま入浴する人も出てきた。温泉特有の色が茶褐色だとかタオルが茶色になるとか、浴場が赤い(成分付着のため)とか、石鹸の泡立ちが悪い(食塩泉のため)とか、湯が熱い(自然湧出のため)とか…温泉であれば当たり前のことに苦情を申し立てる。本物の温泉を知らない、身近な自然の姿すら知ろうとしない人が多くなったと感じる。自然が人間に合わすことはできないのである。人間が自然に合わせて生きてきたのだが、戦後50年の間に、人間中心、人間本位、果ては自分本位の考えが蔓延し定着したようにも思われる。
湯治という言葉は湯治体験を持たない世代において、世代交代と共に死語になっていくと思われる。「温泉」=「温水」というような変容は、現在の観光面での温泉利用の影響があることは否定できない。現在の温泉の使い方、考え方、又、観光の目指しているものが、将来我が国にとって、輝かしい文化となり、遺産となって継承されるものになるのであろうか。湯治は一過性のものでも、作られるブームでもない。恒久的な必要性から生まれたものであり、地球がある限り、人類が存在する限り、湯治は静かに自然の中で存在すると思われる。今、過疎化、高齢化、地域の崩壊化が進行中であるが、いずれ、この地域は秘境化してくる。田舎は田舎、秘境は秘境としての世の中での存在感を創ることが現実的ではないだろうか。観てくれ、来てくれの転意の観光ではなく、本意の観光を探求して、湯治の光を追い求めて行こうと思う。
19代 泉薬湯温泉津温泉元湯温泉湯主 伊藤昇介 著(令和2年12月23日死去)
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泉薬湯 温泉津温泉 元湯