温泉津旅情1 温泉津湾の磯越浪の笹島

温泉津湾の西側先端に笹島があります。お椀を伏せたような形状をなし、現在は隣の大崎鼻を連続して、一つの岬をなしていますが、もとは大崎鼻に隣する一つの島であったと言われています。島の山嶺の松の姿は美しく、緑の大枝を海に靡かせ、山脚は岩盤縦横に壊裂し、奇岩怪石乱立し、大崎鼻との間の磯の浜には小竹が生い茂り、白波が打ち寄せ、荒磯を洗い、越え、通り行くさまは、四季の変化、波の変容と相俟って、かっては、旅人の歌材に堪えうる佳景であったとようです。温泉津を訪れた多くの歌人、旅人たちの笹島讃歌が残されているのを見ても分ります。

我が国最古の歌集、万葉集の第七に羇旅にて作る歌(詠人知らず、笹島の所在地不記、1236)というのがあります。「夢耳継而所見小竹島之磯越浪之敷布所念ゆめのみにつぎてみゆればささじまのいそこすなみのしくしくおもほゆ」という一首ですが、何処の笹島か不明です。
ところが、笹島の所在地について、広島の人、歌人飯田篤老いいだあつおいの旅日記「温泉津日記」文化十年(1813)を見ますと日付三月二十三日の中で「この地(邇摩郡温泉津こと)に、笹島という名所があり、古歌が多い云々」とあり、又、三月二十六日の日付の中では「今日は、かの笹島を見んとして(略)・・笹島にいたる。磯越波と古歌にもあるよし、海の出崎にて、間の低きところ、波こす粗きけしき也」と、古歌にある磯越す波の笹島を見たことを記しています。

広島藩の儒学員であり、歌人であり、三次みよし奉行を勤めた頼杏坪らいきょうへいが著した「しほゆあみの記(文政三年・1820)に「小舟に棹さしていずる、西南の方に引きめくらしたるは笹島なり、万葉に夢にのみとよめるは此島なりといふ、今も低きささの処ありて、波高き時は、打ちこゆるといえり、されど此外にも、同じ名の島もありと聞ゆればいかがあらん、夢のみかうつつにも今日見つる哉波立こゆるささ島のいそ」とあります。杏坪も万葉集に詠われている、笹島の歌のささ島は、この温泉津の島だといい、やっと実在の笹島を見た感動を歌にそえ、日記に残しています。

頼杏坪らいきょうへい飯田篤老いいだあつおい共に、文化教養の中心都市、京、大坂の空気を吸っている、当時の代表的人物です。特に杏坪が温泉津に来て、「笹島という名の島は、この外にもあります」といわれ「いかがあらん」と書き残していますが、その言葉は一層強く笹島温泉津説を主張しているように思われます。
これとは別に、天正十五年(1578)、細川幽斎が温泉津に立ち寄った際、百韻連歌の発句に「浪の露にささ嶋しける磯辺かな」と詠んだと伝えられています。又この時の歌会に出席していた油屋仙右衛門持参の日記(大永六年・1526)に書留めてあったといわれ、細川幽斎が賞美し写し取られた、笹島の歌などは、当時、最高の教養を身につけた、歌人の作であったことは容易に推測できます。

温泉津に来て笹島の歌を詠った歌人は万葉集に見られる笹島の歌を知っている人であり、笹島という島が邇摩郡温泉津にあると言う事を知っている人であり、細川幽斎もその一人であったと考えられます。
古歌にある笹島の歌は、温泉津の笹島の佳景を詠んだ歌として、江戸時代には広く歌よみたちの間に定着していたのではないでしょうか。このように考えていくと万葉の笹島の歌の作者は、奈良、平安の頃の人であり、旅に出て温泉津に来て、笹島の磯越波を見た人でなければなりません。その上大切なのは万葉集の選歌の中に納められるほどの歌人でもあり、都との関わりのあった人と考えねばなりません。この要件に一番近い人となると、石見に関りの深い柿本人麻呂以外には、いないのではないでしょうか。

昭和十一年三月、温泉津町尋常小学校作成の『町誌概説』は、万葉集の笹島の歌は、柿本人麻呂が櫛島から小竹島(笹島)を臨んで、詠んだ歌だと書いています。人麻呂が櫛島から詠んだかどうかは別にして「人麻呂が詠った歌の笹島と思って」笹島の佳景を一目見んものと、温泉津を訪ね来た歌人(旅人)たちがいたことは事実です。文化的、歴史的想いを秘めた笹島の磯に、今日も磯越す浪は、古代のロマンを運んで打ち寄せています。

(藤昇)

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