温泉津旅情2 哀愁漂う橋ノ階の磯
温泉津村の古文書の記述を起しながら村古図を
谷底の一本の狭い道は銀山街道である。村の上口から海辺へと伸びている。
この道を挟んで両側に町家が窮屈そうに重なり合い連なっている。
上口の頭は温泉屋屋敷と温泉津出口御番所で、温泉屋屋敷の内に御薬師堂と浴場がある。隣に大森御役所の御茶屋がある。
道の左右に入湯宿の名板を掲げた入口が並ぶ。薬師屋、まつや、かどや、福光屋、あぶらや、山梨県丸畑の木喰行者行道も宿泊した浄土宗龍沢寺、甲屋の七軒が下口の方へ連なって並んでいる。
入湯宿の名板が見当らなくなると、村の年寄役を勤める木津屋の上屋敷が現れてくる。
次に天正15年(1587)温泉津に旅装を解いた細川幽斎と関りのある日蓮宗恵珖寺、浄土真宗西楽寺の偉容な寺院構えに会う。
さらに下って行くと商家の構が並ぶ中町に入る。御廻米の御米蔵があり四ツ門を過ぎると、廻船問屋、船宿の集まる本町、岩崎に出る。岩崎は温泉津浦の玄関で、浦の浜際には、温泉津船表御番所がある。
浜辺の先端の磯道沿いに、橋ノ階というところがあり、幾人かが座われる大岩がある。今はないが、ここから眺める温泉津湾の景色は、見る人を飽かせない。
湾口200米、奥行700米、湾内は不規則に屈曲し、入りくんでいて大小美しい入江があり入江の
入江の磯は、時に平坦で人を通し、時に切り断ち海面に沈み、人を遮り、湾の先端の岬へと続いている。入江の海面を切って走る小さな漁船の出舟、入舟。速過ぎもせず、遅すぎもせず、決して多くもなく、少なくもない舟の行き来。
夕方、温泉津湾の西方に陽が落ちる。湾の西側先端の笹島の佳景を、見てくれといわんばかりに、真っ赤に熔けて、日中の倍の大きさにでもなったのだろうか、どろんどろんと日本海に沈んで行く。天空を神々しく美しい
昭和17年、温泉津を訪れた詩人で、童謡作歌の野口雨情は
と詠んだ。向こうささじま入日の波にや磯の千鳥もぬれてなく温泉津港にや錨はいらぬ人の情で舟つなぐ
慶応2年、湾内に舟を浮かべた長州藩士・周防の国学者近藤芳樹は、
と湾内の風景に酔いしれている。入江数ある舟伝い飲み盡したる一瓢ささの名に負うささ島のささという気に酔にけり
頼山陽の伯父頼杏坪は
と詠んだ。濁りなきゆのつのみなと雲晴れて月の影さへわきてすみけり
さらさらとささ嶋のいそのささら波月をもくして立こゆるかな
時は、文政3年(1830)陰暦4月14日。この時期、村は入湯宿屋の繁忙期で、その上、例年の御廻米積出しを控へ、御米蔵の蔵開けを前にして、活気に溢れていた。舟入は多く、船の者は申すに及ばず、近国よりの入湯人の絶ることなく、近郷所の人は朝暮入湯し、浜田、芸州広島よりも往来者あり、諸商人も集まり、道はことごとく遠近の人、人で埋まる。昼間の雑踏、喧噪と打って変って月夜の晩の静寂なみなとの情景が伝わってくる歌や記述である。
杏坪の「しほゆあみの記」は、宿の主に案内させ、伴の久保祐甫を伴って、ここ橋ノ海の磯道の大岩の上に座って月見をした。持って来た酒を飲みかわし月光に白く輝く海面を眺める。月はあかく波の上にきらめき渡り、橋ノ海の船溜りや、向いの磯のささえ尻の船溜りの鼻ぐり岩には越後の国の船などが沢山、互いにもやいして寄りそい静かに浮かんでいる。そのもやい船の中から、三味線を弾き、女のもの哀しい声で歌う歌が聞こえる。小舟の中の、つかのまの遊びと聞き,身にしみて哀れが深まる思い。このあたりの遊び
と句作したことを記している。あまさかるひなの長路にをちあふれあわれよるべもなみのうかれ女
あわれなる三筋の糸につながれて心ぼそくもつくいのちかな
(藤昇)
無断での転載を禁止させて頂きます。
泉薬湯 温泉津温泉 元湯