温泉津旅情27 還暦後の新谷道太郎翁
明治維新後、維新蜂起の秘話(温泉津旅情26)の公開を始めたのは、道太郎翁89歳。翁の晩年を知りうるものに近郷近在へ慈善・教育などの社会事業への寄付、死後までに自葬三回という凡人離れの経歴が遺されている。その一部を紹介してみよう。
- 明治42年 3月21日 自葬を行う。貧乏・不安・苦痛を葬り去る、64歳
- 大正 5年 3月21日 再び自葬を行う。71歳 昭和2年三度自葬を行う。82歳
- 大正 5年 4月 島根県邇摩郡立農業学校(現・邇摩高等学校)基本財産として金品寄付
- 大正 5年 5月 再び島根県邇摩郡立農業学校基本財産として金品寄付
- 大正 6年 5月 日本赤十字社より表彰
- 大正 8年12月 湯里村西田尋常小学校へ御真影奉蔵庫寄付
- 大正 8年12月 邇摩郡教育会に金壱千円寄付
- 大正 9年 2月 島根県邇摩郡湯里村尋常高等小学校へ備品費寄付
- 大正 9年 3月 日本赤十字社より三等篤志表彰 大正10年4月日本赤十字社より二等篤志表彰
- 昭和 4年 6月 島根県邇摩郡大森町墜道内に、昼夜燈三個点燈設備及維持費寄付
- 昭和 5年12月 島根県邇摩郡大国村道路改修費寄付
- 昭和 7年 6月 島根県邇摩郡馬路村に
- 昭和 7年 9月 島根県邇摩郡仁万村に
- 昭和 7年 9月 島根県邇摩郡大森町に
- 昭和 7年 9月 島根県邇摩郡水上村に
- 昭和 9年 2月 島根県邇摩郡温泉津町及び大浜村に。島根県連合消防義会総裁表彰
- 昭和10年 6月 島根県邇摩郡湯里村役場に御影石門一組寄付
- 昭和11年 4月 島根県邇摩郡宅野村に
- 昭和11年11月 島根県邑智郡阿須那村に
(翁当時88歳)
いかにも物静かなどことなく気品のある、しかも話て見ると中々元気で青年も及ばぬような意気があった。けれども耳はもうたいそう
聾 であった。目も大分悪くなったというて居られた。「こんな風になって、耳が死に、眼が死に、身体の緒機関が次々に死んで行く、しかし、私は少しも悲しまぬ。誠に結構な境涯じゃと感謝している。死ぬということは、たとへば、衣服をかぶるようなものじゃ、死ぬるということが以前は大層嫌いであったが、今は考えが変ってきて、結構な法が設けてあるものじゃと、かえって賛美するようになった。もしこの世に、死ぬということがないならば、どこの家にも昔からの爺さんや婆さんや、身体の不自由な、役にも立たぬ老人ばかりが、沢山ふえて、その置き場もなくなるであろう。そんなことになれば、世帯を持たねばならぬ若い者は、大難儀をするに違いないが、それがうまい具合に、ころりころりと、次々に死んでゆくので、世の中がいつも新しく開けて面白いのである。それだから死ぬることなど私は、眠たい時に、眠るほどにも思うて居らぬ。葬式などは既に、自分で三度もやっている
第1回自葬 明治42年64歳(3月21日午前9時出棺、新谷道太郎の葬式執行仕り、正午粗斎差上候間、御心遣いなく御焼香なし下され度候)こんな通知状を親族、知人、部落一般に出したので、遠方の者は本当に死んだものと思い、事情を知る者は稀有の事と驚いた。当日までに棺は勿論、葬式緒道具一切を準備して仏壇を飾り、棺前には香華燈燭を供え、私は白装束に白の
(藤昇)
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