温泉津旅情26 明治維新の志士 新谷道太郎翁
「坂本竜馬は、まだかえ」幕府軍艦奉行並海舟勝麟太郎は、寝ころんで庭のさるすべりをながめている。
「はっ、まだのようでございます」若党の新谷道太郎が、控えの部屋からこたえた。
座敷に、潮のにおいが吹きこんでくる。
「神戸というのは、まったくさびしい漁村だった」
と昭和十年代まで長生きしたこの新谷道太郎翁は後年、語っている(司馬遼太郎作「竜馬がゆく(四) 神戸海軍塾」の一節より)
この小説に登場している勝邸の若党新谷道太郎は晩年、湯里野田に持佛堂一宇勧善舎を建立し中国地方一帯の布教活動に従事されていた。昭和12年4月14日九州地方に行脚中、山林大火災が起り、部落を襲い家宅全焼、翁92歳の時であった。後に伊藤家上町借家に寓居。弘化3年2月15日、安芸国豊田郡御手洗島大長村浄土真宗新谷道場に慎十郎の長男として生まれて、昭和16年5月18日後妻おしんの妹、湯湊梅田家にて浄土に還帰、96歳の生涯を終える。
翁の生前の印象を、「新谷翁秘話・志士の遺言書」の著者、諏訪正は記している。「この老翁の青年時代は、明治維新の立派な志士である。しかもその華々しく、輝かしい経歴を深く包んで顕わさず一介無名の老人に成り切って、島根県の山奥に隠棲して居られるのである。普通の人には出来ないことだ。偉い人だなあと感心した。極々懇意になって見ると翁は武術の達人であり、悟道の名僧である。驚くべき強記の人であり、中々の雄弁家でもある。村の人々は何も知らず、その質素を極めた生活と、万金を惜しまず、公共事業に尽くされるのを見て、島根県第一の善行家、寄付頭だと評判している」と。
慶応3年11月3日道太郎22歳の時、「10月14日に徳川慶喜は大政を奉還して、将軍職を辞したが、これは有名無実であるから四藩が連合して兵力を以て大改革をやろう」と、御手洗島に薩長芸土の四藩士が会合して討幕の密議が行われた。集まったのは、芸州池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平、新谷道太郎、薩州大久保市造、大山格之助、山田市之亟、長州桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介、土州坂本竜馬、後藤象次郎の志士たち。
評定日の最後に「今日同志はここに集まって世直しの偉業を計画したが、我等は既に身命を国に捧げ、明日にも知れず散る生命である。死んでしまえばそれきりで、万事は闇に葬られてしまう、その時どうしてこれを後世に伝えようか」「誰か一人生き残ることにして、我等が忠義の志を、後世に伝えるようにせねばならぬ」この時、坂本竜馬が「新谷、君は年齢も一番若いから、どうか生き残ってこの秘密を末世に伝えてもらいたい、しかし決して急いで口外はするな、口外したら君は直に殺されるぞ、どのような事があっても還暦(60歳)までは黙っておれよ」ということになり、道太郎は会合の同志に「百歳の寿を保ちて、維新の事蹟を後世に伝えんことを約す」ことになった。翁が永い沈黙を破ったのは昭和10年1月27日郡是綾部本社大講堂で「維新を語る」講演会であった。
泉薬湯 温泉津温泉元湯から更に上手に向かって200m行くと長命館・元湯の第3駐車場がある。駐車場の上手の奥に、父恕介(18代湯主)建立の明治維新の志士・新谷道太郎翁の胸像がある。ここには、昭和60年頃まで二軒の借家が建っていた。新谷翁は、その一軒に借家住まいをしながら泉薬湯の湯上りに、祖父為太郎(17代湯主)がたてる抹茶を飲みながら話をしていたこと、白く長い顎鬚を蓄え、やせ形で姿勢が良く、眼光鋭く、オーラを感じさせる人であったことなど、翁が亡くなる一年前の揮毫「竜馬」の扁額と、名刺「正五位勲三等禄百石新谷道太郎」など、翁の人柄の語りと一緒に手許に遺されている。
(藤昇)
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