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き あ み やき
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安政元年(1854)頃に那賀郡神主村(現江津市二宮町神主)出身の吹金原繁蔵によって開かれた雑器窯。繁蔵は16才の時、萩の窯に弟子入りし修行した後、嘉永初期、一時、飯浦で開窯していた。
安政中期、津和野藩の御用窯となり、唐津風(須佐、萩風)の雑器を焼いており、資金援助を受けていたという。後に国蔵−亀次−関治−繁太郎と継承され、飴釉を基調とした高取焼風の釉掛けが行われるようになり、荒っぽい点がローカルカラーとして尊重された。
昭和初期、経営が不振に傾いたため、昭和7年(1932)頃、益田の右田紀元が関治とはかって梃子入れを行い、《雪舟焼》・《喜阿弥焼》の印を茶器類や花器等の小物に押すようになる。昭和20年(1945)、一貫して雑器を焼く窯としての使命を果たし廃窯。
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