郷土の偉人
郷土の焼き物

七尾城・三宅御土居・
中須東原遺跡


若返りの間

石州口の戦い





























   




   七尾城想像模型

益田氏
ますだし
 平安後期、11世紀頃に藤原国兼が、石見国司(県知事に相当)として、現在の浜田市に赴任したことに始まる。御神本国兼と名乗るようになる。

四代 兼高
 石見で最も広い平野があり、交通の要衝と港に適した
益田に本拠を移し、御神本から益田に改姓。兼高は源平争乱時に周囲が平氏を支援する中、源頼朝の命を受けて壇ノ浦の戦いで手柄をたてるなど着々と力を蓄えた。益田氏は鎌倉時代初期には石見の約3分の1を治めるようになり、室町時代から戦国時代にかけては、周辺の大勢力と巧みに結び、石見での地盤を強固なものにしていった。

十一代 益田兼見
 南北朝時代に、益田氏の館であった三宅御土居築造したといわれている。

十五代 益田兼堯

 応仁の乱(1467年)をはじめとした数々の戦乱で多くの武勳をたてるなど、その生涯は戦いの連続であったが、文化への深い理解者でもあった。大内氏の保護下にあった雪舟が、兼堯の招きで益田を訪れたのも、大内氏との関係によるものである。
雪舟作「益田兼堯像」(重要文化財・益田市蔵)は厚遇してくれた兼堯に対するお礼といわれている。
 大内氏の重臣陶氏と親類関係となった益田氏は、毛利氏や津和野の吉見氏など周辺勢力と対立したが、陶晴賢が毛利元就に敗れると、19代藤兼は毛利軍の一翼として山陰攻略にあたっていた吉川元春を仲介者として毛利氏と和睦した。このとき、毛利氏一族に数々の贈り物をしたことが益田家文書に残っている。この中には虎の皮など海外の品もあり、
益田氏が大陸と交易していたことが当時の朝鮮の書物「海東諸国記」にも記されている。
 

 七尾城本丸跡から望む平野と、七尾城から益田川を伝って続く三宅御土居跡、さらに日本海へ広がる景観は、まさに益田氏の海洋領主的性格を彷彿とさせる。和睦した益田氏は毛利氏に重用され、20代元祥は元服の時に元就から「元」の一字をもらっている。そして、
石西はもとより出雲、長門、さらには九州まで領地を獲得していった。

 領地も人命も大きく失うことなく戦乱の時代を生き延びた益田氏は、徳川家康から領地を保証するという打診を受けていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏に従って、長門の須佐(現在の山口県)に去っていった。元祥は永代家老として、財政難にあえぐ主家の財政立て直しに優れた指導力を発揮している。
 
 現在の益田地区の成り立ちの基礎は、こうした
益田氏治政下の約400年の間に、七尾城の城下町として築かれたことに始まっている。益田地区が中世の城下町のなごりを持つ、全国的にも特色のある町といわれる所以である。



中世益田家年表と
発掘された遺物


三宅御土居想像模型

七尾城跡
ななおじょうあと

三宅御土居跡
みやけおどいあと

七尾城と三宅御土居をあわせた
「益田氏城館跡」として
平成16年に
国の史跡に指定されました

 
 
 
益田氏の館であった三宅御土居は、南北朝時代に11代兼見によって築造されたといわれている。七尾城から益田川を隔てた対岸にきずかれたのは、農業用水と、益田川を利用して益田本郷地域へ供給される物資の流通を管理するためと考えられている。

 戦国時代末期、毛利氏との対立から19代藤兼が一時本拠を七尾城に移したが、毛利氏との和睦に伴い20代元祥が三宅御土居を大改修して下城し、再び本拠とした。関ヶ原の戦いの後、元祥が長門国須佐に移り、400年に渡る益田氏の地方支配が終末を迎えると、三宅御土居もその機能を失い、廃絶した。

 その後、御土居跡には、江戸時代に益田氏の家臣が泉光寺(平成21年移転)を創建した。泉光寺は、三宅御土居跡のほぼ中央に位置していた。このおかげで、今日まで開発を受けることなく遺跡は守られてきた。現在、 三宅御土居跡の周辺には民家が建ち並び、昔を想像することは難しくなってきたが、当時の名残である東西の大規模な土塁をはじめ、次第に明らかになる発掘調査結果などから当時の壮大さが偲ばれる。

 
三宅御土居跡周辺には、現在も東西に高さ5mにおよぶ大規模な土塁が残っている。明治10年頃の上本郷村地図や昭和22年の米軍の空中写真を参考にすると、全体の形が現在もよく残っていることがわかり、館の周囲には堀があったと推定される。 長さ90m高さ5mの東土塁と、長さ50m高さ4.5mの西土塁とに挟まれた範囲に建物があり、その周囲を堀が囲んでいた。当時一町(約100m)四方が一般的な規模であった中で、南北が一町、東西が二町の全国的にみても大規模な御土居である。東土塁に比べて西土塁の長さが短く、上空からみると長靴状の形をしている。通常、館は正方形か長方形の整った形をしており、全国的にも珍しい形である。以前は、長方形の館であったものが近年の開発によって削られたと考えられていたが、調査によって最終段階の平面形は長靴形であったことがわかった。
 


発掘調査結果報告
   








船着き場跡




東端・船着き場跡



中須東原遺跡
なかずひがしはらいせき


国の史跡に指定されました 2013.11.16



   
 益田川と高津川の下流域一帯には、かつて
石見最大の潟湖(古益田湖と呼ばれる)が広がっていた。古代以来の人々の営みは、その縁辺部にみられ、水辺から久城丘陵一帯に点在していた。

 海退や河川の土砂堆積作用によって次第に平野部の陸地化が進み、新田開発も進められていった。その後、河川による土砂の流入による三角州の前進や14世紀後半の海面低下により陸地化が進むが、中世の頃にも潟湖的な水域が存続しており、南河川による複雑な流路や沢沼地を含め、港に適した地形的条件が備わったと考えられる。

 発掘調査の結果、掘立柱建物、鍛冶炉などの鍛冶関連遺構、墓、木組みの貯水枡状遺構、砂利敷を含む道路、溝などが発見された。
 注目されるのは、全長約40m、最大幅約10mの
礫敷き遺構の発見である。人頭大の円礫を多数使用して築かれた礫敷き面は、15世紀中頃に築かれたと考えられる。

 貿易陶磁器は、15世紀代を中心として、12〜16世紀にかけてのものが出土している。中国陶磁が碗・皿を中心に出土するが、隣接する中須西原遺跡から山陰で初めてベトナム産陶磁が出土したのに続き、中須東原遺跡からは、タイで焼成された15世紀の鉄絵壺が出土した。

 さらに、朝鮮陶磁が多数出土する点、鍛冶関連遺構や大量の鉄さいが広範囲に広がっている点は、中須西原遺跡と共通する様相であり、
当時の益田氏が、対馬を介した交易ルートを獲得していただけでなく、朝鮮との直接的な通交を行っていた可能性も考えられる。

中須東原遺跡は、中須西原遺跡と一体的に機能して、13世紀から15世紀にかけて繁栄した湊町であったといえる。

平成25年11月に、
国の史跡に指定された。