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 雪舟の風景   第一部 総社編
1. はじめに
  雪舟の生涯はまさに旅そのものであり、旅が雪舟の禅の道場であったと言ってもさしつかえないであろう。このような雪舟の姿を師と仰いだ松尾芭蕉は道中、雪舟の芸術に代わる文学をもって旅の友としたのである。人生そのものが旅であった人は多いけれど、雪舟のように道を説き、芸術に励みながら旅を続けたものは少ない。ある時は旅先の寺に滞在して禅の道や旅先での人情を語り、ある時は暇を惜しんでは独自な水墨画の世界を作り上げた。


2. 赤浜生誕説
 雪舟は総社市赤浜に生まれた。この赤浜説は雪舟が亡くなって200年もたった元禄のころ、京狩野(きょうがのう)の3代目狩野永納(えいのう)が父山雪の残した稿本をもとに、儒学者黒川道祐(くろかわどうゆう)の援助を得て著した「本朝画史」(ほんちょうがし)が最初に示した語である。
 赤浜には「画聖雪舟生誕碑」という雪舟顕彰碑が建っているが、碑文は昭和14年に記した山田準のもので、その内容は「本朝画史」系の雪舟伝に従っている。

画聖雪舟生誕碑
3. 田中生誕説
 雪舟の生誕地は赤浜説とは別に田中説があり、そこに「雪舟遺蹟碑」と記された雪舟顕彰碑が建っている。この周辺に足守川がつくった沖積平野が開けているが、土地が低く、雪舟のころは度々、冠水状態になったと思われる。
 この碑の由来によると、石見国出身の田熊権太左衛門信清が備中に移り住み大森氏に仕えていたが、大森氏が滅亡した後、この石碑近くに屋敷を建てて住んだ。やがて信清の子、源太は井山宝福寺に入山。寛正年中に明(みん)に渡り、禅を究め、画に熟達し、雪舟を名乗ったという。



雪舟遺蹟碑
4. 涙で描いたネズミの絵
 「本朝画史」によると、雪舟は12、3歳で宝福寺(ほうふくじ)に入り、涙で描いたネズミの絵で住僧を驚かせたと記してあるが、この話はあまりにも有名である。あくまでも逸話にすぎないが、雪舟の卓越した画才をほのめかせている話しにしてもその構想はすばらしい。
 雪舟は小田という武家に生まれながら武士としては出世せず、禅寺に小僧として入れられたということは、雪舟の家柄や境遇がそれほど恵まれていなかったということではない。だから、雪舟は生まれながらにして芸術への才能がそれとなくみとられていたと考えるのが普通で、この才を生かすためにも僧籍に入れ、やがて相国寺に移されたと考える方が妥当である。


村上爽峰筆「幼少の雪舟」
5. 総社市との縁
 雪舟が少年時代に井山宝福寺に入山したかどうかは資料の不足で確認することはできないが「半陶文集」「梅花無尽蔵」などの資料では、早くから上洛(じょうらく)して相国寺に入ったと記してあるが入山したという記録はない。
 それでは宝福寺入山説は架空の話だろうか。その宝福寺は雪舟没後、焼失しているので文献はないが、そうかといって雪舟と宝福寺との関係はむやみに捨て去ることはできないようだ。今も昔も総社市を支えている文化の底流には、総社市と都との結びつきが深かったのであろう。

井山宝福寺
ますだしりつ せっしゅうのさと きねんかん
益田市立雪舟の郷記念館
〒698-0003 島根県益田市乙吉町イ1149
TEL/FAX : 0856-24-0500
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