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 雪舟の風景   第二部 京都編
6. 相国寺
 雪舟を語る資料の全てが少年時代に相国寺に入ったと記しているが、入山した年月日や理由は明確ではない。相国寺は万年山相国承天禅寺といい、臨済宗相国寺派の大本山で京都五山の第2位である。禅宗では教えは師から弟子に厳しく伝えられる。雪舟にとって禅とは師の春林周藤であり、相国寺であった。洪徳は春林、雪舟は的子と記されてあるので、雪舟はあたかも春林の弟子であるようにみられていたようだ。
 絵の才能を持っていた雪舟であるから、その才能を最高に生かすためには、当時の水墨画の巨匠周文が都管の職であった相国寺こそ、最も画業取得にふさわしい禅林であったのだろう。雪舟は春林の教えに従いながら、周文からは水墨画の神髄を学んだのである。



京都 相国寺
7. 春林周藤
 春林周藤は雪舟の師で、何かにつけて雪舟の生涯に大きな影響を与えた。春林は僧録司を務めたような人柄であったことから考えると、禅を修行すること自体が徹底したはずで、雪舟は画に専念することはできなっかただろうと思われる。つまり、雪舟は相国寺に入り、春林和尚に師事していたために画の修業には最も条件の悪い境遇に巻き込まれたようだ。
 ともかく春林の生活態度は無欲で篤実であったことは人もよく知るところであるが、雪舟もまた淡白であったようだ。春林が没したとき、雪舟は44歳になっているので、雪舟が永享2年に師事したとすると、ざっと33年にわたる永いつきあいだった。有形にせよ、無形にせよ春林の人柄に深く感化されたことは言うまでもない。


8. 天章周文
 如拙を継いだものが天章周文である。雪舟にしては20歳代に周文の最盛期があったと思われ、雪舟がもし彼に師事したとしても、この期間だったであろう。その上、雪舟をますます不明確にするのは、現存の伝周文画が一つとして周文の絵だと確定できる絵画が一つもないことである。ともかく周文傘下の画僧たちが、画壇の主流を占めており、しかも年月がたつにつれてマンネリズム化した流れが見えはじめ、殊に雪舟が相国寺にいたころは、その画法や筆法が乱れ始めていた。

9. 室町期の画系
 周文派の画風は時代の要請により中国の絵画を習得することであった。いわば、疑似中国画一辺倒であり、禅林画風は完全にその風潮に左右されていたのである。しかし、雪舟にしてみれば、この模倣の風潮は耐えられないものであったようである。やがて、彼は新しい画境を求めて相国寺を離れていった。画壇のマンネリ化を脱するには山水画を主流とした水墨画の新しい趣向による創作以外にはなかったのである。
 このように水墨画は室町時代に開花したが、雪舟は相国寺派の模倣的画法に疑問と反発を感じ、これを超えるには次元を超えた飛躍が第一だとして、今までの詩画軸的な作品から離れ、新世界を求めて山口に向かった。
 ともかく雪舟の偉大性は周文系の詩画軸に頼ることなく、あくまで自分の力で山水画の世界を築こうとしたバイタリティーにあった。


10. 拙宗
 雪舟が「雪舟」という号を持つ以前に「拙宗(せっしゅう)を名乗っていたのではないかという説がある。つまり、如拙、周文の流れをくむ雪舟であるから、これら両者の師の一字ずつの名を取って、拙周という名にしても少しも不思議なことはない。その「周」の字を「宗」にした「拙宗」の存在はやはり彼の前半生に大きな存在となってくる。
 さらに雪舟、拙宗と竜崗真圭との関係は「雪舟二大字説」によってもかなり深いものを感じる。
 この二字説は竜崗によって記されたもので、長禄元年(1457)、雪舟の39歳ごろである。
 当時の諱と号は同通音のものを求めていたようで、雪舟にしてみればこの「雪舟」の二字をいかに大切にしていたかよく分かるというものだ。
ますだしりつ せっしゅうのさと きねんかん
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