湯主の軌跡5
天保の温泉訴訟② ~小前騒動から和融熟談書取り交わし~

天保3年(1832)
江戸勘定奉行への愁訴により、温泉の権利・所有は温泉屋直左衛門にあるとの沙汰は下りましたが、温泉津村では新規温泉坪の施行、分湯の件で温泉をめぐっての大論争が起こっていました。また、江戸より帰国した温泉屋直左衛門を待ち受けていたのは「愁訴」という行為に対する吟味でした。御老中からの御沙汰があり、大森御役所で吟味が行われ、温泉の権利・所有が明確になったものの、温泉屋直左衛門と村方との和解はできず、話し合いは破談に終わりました。温泉屋直左衛門は、吟味中、大森の郷宿に宿預けとなっていましたが、2月12日に宿預けが解かれ帰村が許されました。しかし、温泉屋直左衛門は1日帰村を延ばし、大森郷宿の大吉屋瀬平方に逗留することになりました。一方、村方は前日の11日に先に帰村しており、温泉が温泉屋直左衛門のものである沙汰が下ったことを小前(百姓)たちに伝えるとそれに納得できない小前たちは、温泉屋直左衛門が帰村する予定の翌12日夜、温泉持証拠書類強奪のために温泉屋を襲う暴動を起こしました。「村内小前(三百三十三人)騒動」の勃発です。

村方、小前、百姓は、「温泉はもともと村持のものであり、温泉屋直左衛門の父新左衛門が庄屋を勤めていた時に村持温泉証書を奪い取り、内容を書き換え自分持の温泉とした」「村持温泉なのだから昼夜を問わず好きな時に自由に入れるはずだ」と証書の偽造、村持温泉を主張し、大森御役所から直左衛門が帰ってくるのを見計らい直左衛門親子を殺し温泉証書を取り返そうと手筈を整えていました。

12日夜4ツ、小前数人が直左衛門を訪ね温泉屋に来ましたが、不在であることを告げると、直左衛門の名を呼びながら一斉に大声を上げて家の中に入り暴れだし、前の往来では数十人が声を上げ出しました。

13日9ツ時分よりお茶屋前にて火をたき、一同集まり竹貝を吹き、太鼓を叩き、数百人が声を上げました。直左衛門を探し回り、留守とわかると直左衛門の妻を引き出しせっかんを加えるぞと脅し、直左衛門を出せと声を荒げ、直左衛門の二男国蔵が、直左衛門は留守にて疑うならば、居宅のどこでも探せばよいと話すと小作数百人が居宅に上がり込み障子、水がめ、火鉢を壊し、灰をまき散らし暴れました。そこへ御出役の柏木、狩野がきて、直左衛門はまだ大森に逗留していることを伝え数百人の小作を御茶屋へ向かわし、御出役の居宅見分が始まりました。惨状を書き立てている中、小作の和七という者が大声で「これは全てこの家の者のいたずらである。自分たちは誰一人としてここには入っていない。」と。二男、国蔵は「数百人の者が押し寄せてきて命の危険を感じ私共はみんな納戸瀬戸口で隠れていた。家の者がいたずらなどするはずがない。彼らが偽りを申している。見た通りのあり様である。これを察してほしい。」と伝えましたが、柏木よりあれこれ申すは不届きだと厳しく叱られ、控えていろと何度も言われ、心外ではあったけれど従うしかありませんでした。その後、戸締りをするように促されました。その夜、御手廻り福蔵がきて、「温泉屋が親戚に声をかけ加勢を頼んだようだと連絡がきた」と言われたので「家の者、誰一人として外に出ていない。決して加勢を頼むようなことはしていない。」と話すと早々に帰りました。

その夜四ツ半頃まで数百人の者が御茶屋前で火を焚き、竹貝を吹き、時の声を上げており、夜中じゅうほうかむりをした5.6人が戸を叩き、中に入っては見渡し帰るということが繰り返されました。

14日五ツ頃よりあたこ山で鐘を叩き、上町辺りでは七兵衛が大声にて皆を浜辺へ連れ行き、それより4ツ時分、数百人の者が温泉屋畑の材木、竹、杉を砕き、火をつけ、竹貝を吹き、時の声を荒げ、酒を持ち込み大騒ぎをしていました。

15日夜、温泉屋に大森都屋安兵衛、岡田屋東吉が表向き見舞いとして訪ねてきましたが、実は柏木からの内談を国蔵に持ちかけてきました。内容は事を早期に収めるために取り調べでは、騒動は国蔵をはじめ家内の者の内輪もめが原因だったと答えるように。大勢を敵に回せば、両親、兄弟、使用人、親戚の者は皆命を狙われ殺される。皆の身の安全を考え、小作による乱暴や立入は全くなく、温泉屋の内輪もめ騒動として決着をつけるようにとの話でした。国蔵は心外ではあったけれど、皆の身を案じ、申し出を受ける条件として口頭で内輪もめ騒動だと認めても、書面は作成しないと提示し、柏木の遣いで来た安兵衛、東吉はそれを受けもどりました。しかし、取り調べで、書面作成は必要となり、国蔵は「話が違う。ここで内輪もめと嘘の証言を認めれば、村方がさらに調子に乗り、何を言い出すかわからない。」として書面作成を拒否しましたが、結局、村方との連印をしないという条件で、国蔵一人が書面作成をし、印を押すという形で決着となりました。その後、国蔵は皆の命の為とは云え、温泉屋にとって不名誉となる虚偽の文書を自分の一存で作成したことを苦に家出をすることに……。

この騒動は銀山領内隣村6ケ村の庄屋、郷宿を巻き込む事件へと発展し、「天保の温泉津村温泉出入一件」として伝えられています。事件は同年4月、銀山領内六組惣代、郷宿らが立入人となり、温泉持主直左衛門と小前惣代及び百姓代表との間で「温泉出入和融熟談書」を取り交わし終結しました。

小前騒動に関わる詳細な記述は、伊藤家文書に残されていますが、32年後の元治元年(1864)「五十猛村誌 林徳則伝 温泉津村小前騒動の一条」、140年後の昭和47年4月「島根県史第八巻 第九編」、163年後の平成7年「温泉津町誌 中巻 温泉津村温泉一件勘定奉行所への愁訴と和融熟談書」の条に記録が残っています。この温泉津町誌の記録は、温泉屋の記録はなく、残されている村方側の文書を基に記録されている村方視点での記述です。今回公開している伊藤家文書は、村方の訴状、温泉屋の訴状の両方の記録から温泉屋視点で書かれたものです。

伊藤家文書 騒動の記述(一部) 32年後の記述 五十猛村誌 元治元年甲子十月 安芸村 井明御撰   林徳則伝

林広右衛門いみなハ徳則字ハ茂仲号ハ晩翠、初メ弥三郎ト称シ、後今ノ名ニ改ム、文化元年甲子ヲ以石州大浦に生ル、幼ヨリ弘義英果寡欲ニシテ心ヲ大義ニ存ス、十五歳ニシテ家ヲ嗣グ、家居閑アレバ好ンデ書ヲ読ミ古今ノ史ヲ渉猟シ、其ノ忠勇義烈ノ蹟ヲ見ル毎ニ未ダかつテ賞歎セズンバアラズ、十六歳ニシテ年寄役兼庄屋ニ推薦セラレル、天保三年辰四月温泉津村民等、同村湯屋直左衛門ノ温泉場ハ村ノ共有ナルヲ称ヘ、遂ニコレヲ訴フ、時ノ代官根本善左衛門之を議定シ、勝ヲ直左衛門ニあたフ、村民其ノ不法ヲ怒リ、蜂起シテ湯屋父子ヲ殺シ以テ代官ニ及サント欲ス、直左衛門急ヲ代官所ニ報ズ、代官怒リテ数人ヲ縛ス、此ニ於イテ村民益々激昂シ、党類ヲ嘯集しょうしゅうシ以テ湯屋氏ヲ図リ、毎夜矢石ヲなげうチ、吏及ビ行人ニ重傷ヲ負ワシム、代官大ニコレヲ憂イ書ヲ波積南村庄屋八右衛門等ニ飛バシ、以テ之ヲ鎮撫セシム、君モ亦與ル、八右衛門、事ノ重大ナルヲ以テ遅疑決セス、君進ンデ曰ク、官令やすンゾ躊躇スベケンヤ、義ヲ見テ成サザルハ勇ナキナリト、行コト三日ニシテ、事全ク卒ニ湯屋氏ノ勝トナル、是ヨリ君ノ名声、領内ニセキ嘖々さくさくタリ、時ニ歳二十有九、

140年後の記述 島根県史 第八巻第九編  藩政時代下 第7節 勤王志士 林徳則(p704)

天保3年4月 温泉津村は湯屋騒動なる事件 勃発するや時の大森代官根本善左衛門これを憂い徳則をして鎮撫せしむ、徳則これを処理して高評あり、

163年後の記述 平成7年 温泉津町誌中巻 温泉津村温泉一件の記録

勘定奉行所への愁訴と和融熟談書の条に次のように記録されている。
この年(天保2年)10月、石州邇摩郡温泉津村惣百姓惣代として直右衛門、和三郎、治惣兵衛の三名の者が出府し、勘定奉行所へ駆け込み訴訟を決行した、訴状は「根本善左衛門御代官所石州邇摩郡温泉津村惣百姓三百七十余人惣代、百姓直右衛門、同和三郎、同治惣兵衛申し上げ奉り候」として、温泉の所有権の問題から直左衛門の村人に対する態度、湯治人の取り扱い、特に代官所お下げ金による施行湯船取立てについて村民との対立などについて書き上げ温泉場の「村役人差配」仰せ付けられたくと願い出た、この訴訟の処理についても資料は残されていないが、おそらくは地元大森代官所引渡しとなったのであろう。

こうして温泉の所有権をめぐる湯屋と温泉津村との対立は深刻な問題となり、まさに一触即発の危険性へと進んでいった。こうした事態の推移に「一村存亡にもかかわる儀」と憂慮した銀山領内六組惣代や郷宿らが仲介に立つことになった。村方、直左衛門もこれに応じ十分な話し合いの結果、「温泉出入り和融熟談書」が取り交わされた。一年有半にわたり争い、江戸の勘定奉行へまで出訴する大問題に発展した「温泉津村温泉1件」は結局湯屋直左衛門の主張に沿う形で決着をみることになった。

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