温泉津旅情11 泉薬湯温泉津温泉元湯
『温泉記の釈文』

『温泉記の釈文』には「狸の池発見縁起」「伊藤重佐の湯治温泉場開発と温光寺建立」「湯治場の発展と一村の起立」について書かれています。

『温泉記の釈文』
石州温泉津の出泉は、開闢かいびゃく興基未だ何の代と言うことを詳らかにすること能わず。けだし、聞き伝う。昔年行脚の僧あり。此れの浜を過ぎて、日、傾陽に還り、宿を崇阿すうあに求む、暫時、国家安寧あんねいを失って狼煙のろしかすめ鯨波地を洗う。ここにいたりて国人賊をおそれ、旅宿を許さず、また僧なることを恵みて此れを指して曰く、幸いなるかな、此山間に弥陀薬師を安置するの霊堂あり、是れ吾子が安らぎを求めけるの華屋なりと。

僧欣然としてここにいたり、三礼を外に投じ、一かんを内に慰む、睡美枕を甘んじて漏暁ろうぎょう更に至る、時に閃電せんでん照らして故宮を破り電雷客夢を驚き回す、山鳴り江応えて愁然として襟を正して危座す、親しく妖怪来りて之を襲わんと欲す、僧常に懐剣を帯手、粛然として之を刺す、怪異これがためにたちまち退く、

いなずま消えて却て山間の名月を見雷尽きて猶江上の清風を呑むが如し、明月左右を見るに血滴を路頭に粘ず、これを追ってこれを求むるに山麓に到りて跡なし、傍らに清泉あり古狸その流れに浴す、左腋新たなる疵あり、嗚呼噫暛、我之を知れり、霹靂へきれきの夜、余を試みるものは汝にあらずや、終わりに江村に帰りて之を語る、人之を異とす、二三子僧に随いて行く、果して老狸気を得て去るを見る、人皆以為薬湯にあらずんば何ぞ此事あらんやと、戯れに之を決するに泉底に洞あり、誠に知らん又前世又泉に浴するものありと謂うことを、茲において新たに湯盤を作り近里遠郷最も好とす、且つ又温泉津の名を得ること、それここにあるものか、

星移り代改まりて伊藤氏重佐と云うものあり、洞口を開き盤を改め上医王調、御を還す、号薬師山温光寺、下に温湯の徳化を流す、時の国主元就公、重佐を以って湯主に任ずるに、国乱れて後、太守毛利輝元公つかさとなる、

此時湯主重佐裔孫信重というものあり、阿(おく)堵(と)少物を投じて国恩の重きに酬い奉る、其以来つかさ君之を例とす、唯、恨むらくは傍客傭夫の類、名高く徳深くして其の故あることを知らず、徒らに心を清泉の徳流に洗わず、空しく身をあしたの垢穢こさいのためにきす、

それこの佳境たるや、後には山林茂りて鳥獣之に帰り、前には比屋富を売り耕之に遊ぶ、頭を東に回らせば駅路逍遥として騎旅行客花に往き、青をふみて来る、又西の方を望めば、江海茫洋として客船釣り舟凪にしたごうて過ぎ、雨を帯びて還る、若し禄山をして巧みに鳧鴈鴛鴦ふがんえんおうを以ってせば、又貴妃をして座するは金殿玉楼を以ってせん、此れの盤泉の景光詩に詠じ文につらねては、えびす為さんぞ麓山の風流にささんかな、

たとえ、佳景眼光に落ち清流人気を潤すといえども、偏に富貴の為に、卑きを棄ては名高く徳広からず、鄙賎のためぞに尊きをざんじば、徳厚きに似て名清からず、今これ潤沢を蒙ること、貴となり賎となり、老いとなり少となり、相依ること左右の手の如し、是を以って疾病の人薬を忘れて還り、禹歩うほするもの輿を捨てて過ぐ、皮瘡骨折のやから来るとして、未だそのしるしを得ずということなし、しかのみならず、千里の行人馬蹄の塵を払うて多日の労垢ろうこうを濯い、万頃の掉郎舩湿の衣を振って、長江の客愁を慰す、野に手うつ農人、山に歌うとう牧童、朝に労して夕べに蘇栖そす

是之の霊湯もし神仙の洞口にあらずんば医王善逝琉璃壷せいるりこ中より涌出せんか、惜しいか千古来伝記紙綴靡爛かみつづなびらんして字画落失す、今や則いたり故に湯主、予に記を作ることを請う、辞すといえども許さず、終わりに野筆を投ず、誠に古をたずねて新しきを知る千古の昔なりといえども、その事を記するときは今の紙上にとなる、又百代の後人をして此の記をひらかしめば、後の今を見ること、今の古き見るが如し、然れば、古往今来、日に新たに、日日に新たにして、また日に新たなりとは、それ此れの之を謂う

干時弘治元暦三月初十有冥  芸陽広島城 沙門惟柔ただやす九拝

(藤昇)

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