温泉津旅情14 
江戸時代の温泉津温泉の効能

伊藤家「泉薬湯」の温泉記によれば永禄三年(1560)屋号を「温泉屋」と云うとある。当時、すでに温泉を経営していたのである。伊藤家には江戸時代の温泉津の温泉の効能、温泉の入り方が書いてある文書もんじょがある。著者の中原周治は自分は温泉が効くということに惑わされていて、永い間「効くこと」を知らなかった。最近、入浴者を見たり、実際にに入って湯治体験をしたり、温泉に入りに来た諸国人の疾病が治る話を聞くが多すぎてそれぞれを書き置くことが出来ない。この温泉の効くことを知らない患者の一つ助けになる初めての入浴指導書を集成した。良い後継者があれば温泉の効く入浴指導書として活用してよいと書いてある。

文書は、明和9年(1772)大国むら(現大田市仁摩町大国)中原周治貫通著「温泉効記」。これを天保14年(1848)平光胤が再録したのが「温泉主治考」である。そのなかの「当津(温泉津)温泉効目録」には次のものが見られる。

「頭痛、脚気かっけ、脇痛、腰痛、疝気せんき痰飲たんいん積聚しゃくじゅ帯下こしけ湿毒しつどく瘡疥かさかい痔漏じろう脱肛だっこう淋證りんしょう下血げけつ、折傷、手痺てしびれ、筋骨痛、肩背痛、撲傷、半身不遂、痢後余疾、腫物余毒久不盡、其餘諸病すべて内外に熱なき證には何れもこの温泉に入りて即効あること神の如し」とある。同じ名前のものもあり、現在では聞きなれない名前のものもある。内容を紹介してみよう。

「温泉の人体への作用」については、「温泉に入ってわかることは、体をあたため血の巡りを良くし皮膚を開き悪い血を出して、かさふたが出来るのが良い。温泉効目録の病の名の毒を取り去るのであるが他の温泉で聞いたことがない」と。

「入り方」については「すべてにいる者、まずしゃくをもって温泉み取りて、かけながして、両の肩、背、腹を強く洗うことなかれ」と。「かしらかお周身そうみあたたまりとおり、汗出るをよしとす也」「それ初めてにいる方、胸、腹、開き、つうじて能、しょくあじわいうまき、これ温泉きくを得たる也」「胸、腹飽満あきみちくらうことを思わず、大便秘結する者は下してこれをくすりでよし」「又、にいりて後、あるいは大便くだり腹痛み、糞に温泉の臭気をなす者これききたる也」「くすりをもちゆることなかれ、自ずから止む」と。

に入る回数、期間」については「一日に三、四度。強き人、六、七度に及んでさわりなし、これを過ぐれば、またよわるなり」。ましてそれ、にいるもの、「ハづかに七日ひとまわりに限って止む。何ぞく病をらん」「三七日みまわりよりそれから五七日いつまわりまた七十日ななまわり半年はんねん周歳いちねんにしてなおるべしや」と。

「食事」については「にいるうち(湯治中)」は「なまもの、つめたきもの、肉食なまざかなやめる也」と。

「体調の注意」について「にいりて、はだへ、しまり、自ずから開け、いりすし、かぜさむけ雨湿うしつ一七日ひとまわりの間慎むべし」。

「・・・これを以て温泉きくを知るふみとなしてよしと云う」と。「明和壬辰みずのえたつ(1772)ノ初冬、大国むら中原周治貫通著」。「天保癸卯みずのとう(1843)ノ首夏、東都ノ隠士、梅殿司箺帒平ノ光胤、温泉津ノ客舎干、再びこれを書録ス」。

この書は著者中原周治自身が温泉津温泉で湯治体験し諸国から温泉津温泉に来た湯治人に直接会って見聞きして書かれたものである。江戸時代に入って温泉の医学的な著書が世に出てくるのが、1711年、儒学者貝原益軒著「有馬湯山記」。1716年、温泉医学者河合章堯著「有馬湯山道記拾遺」。1738年、灸の漢方医後藤良山こんざんその弟子香川修徳著「一本堂薬選」。1794年、儒医原雙桂著「温泉考―温泉小言」。であるから、1772年この時期、温泉津温泉の効能について初期の学術的な取組みがなされていることは注目に価することである。

(藤昇)

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