温泉津旅情16
由比長兵衛様御印カン写し(お侍の入浴取り扱い)
大森屋敷より若し湯入り越し候節ハこの判形置くべく候
定りの湯銭取り立て入り申すべく候
判形持参これ無きは湯銭出し候とも一切入り申す間敷く候
其の為印判持ち置く候亥正月
由比長兵衛判
湯屋 庄兵衛(※釈 大森屋敷の者がもし湯に入に来たときはこの判形を置くこと
定りの湯銭を受け取ってから湯に入るよう申すこと
判形を持って来なかった者は湯銭を差し出しても一切入浴させないこと
そのため印判をここにおいて置く)
亥正月は天和三年(1683)正月、大森代官由比長兵衛が湯屋庄兵衛に与えた定め書きです。
これは大森陣屋敷の者が湯に入る際の定めです。その際、証明になる判形を持参させる。その時の取り扱いを定めています。由比長兵衛は大森代官13代目の人で、天和2年(1682)に着任。翌年、表記の判形を発行しています。その後、元禄5年(1692)までの10年間在任しました。
徳川幕府が開府したのが慶長8年(1603)。開府前の慶長6年(1601)6月に大森奉行所は置かれています。
下記の記録は大森奉行所が置かれる以前、毛利公支配の侍の入湯者の取り扱いの記録です。
一、銀百目定
湯役地銭共無滞其年々請場口堅可調者也 此外諸役御公方万事免者也一、諸給人にも如前々湯銭可取者也
(※釈 地下侍からも従前通り湯銭を取ってよい)
右乗条々如件 永禄三ノ八月二日 瑞応寺 武康(安) 申也 湯屋新左衛門尉殿
(※給人とは戦国時代大名から恩給を与えられ家臣化した在地武士(地下侍)のこと)一、ゆ役銀二百目 但屋敷銭共
右の外諸役御公万事免者也一、侍扶持人という共例ゆせん可取者也
(※釈 侍扶持人といえども例外なく湯銭を取ってよい)
児玉成康(就安)判 茜屋惣兵衛殿 旨
(※侍扶持人とは扶持を受けている侍 俸禄を給して家臣として抱えていたもの
毛利支配の頃の毛利の家臣・侍からも湯銭を取るよう旨令が出ています
旨とは、旨令、旨命 上の人のおおせ。)
湯銭の取り立て、ということから見えてくることは、封建社会、不安定社会といえる戦国時代末期、毛利支配のときも徳川開府初期も勝者敗者、特権階級、支配階級の区別なく一般人として同等の取り扱いを支配者は命じていたことがわかります。
(藤昇)
(資料 伊藤家文書)
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