温泉津旅情3 漁夫の文書は語る
~越前沿岸に伝わる遭難した漁夫たちの恩返し~

「浦人に救われ命たすかりし由、其報謝に直ちに此所にとどまり漁業をなして恩に答べしとなり」という文書が越前の一漁村にあった。(越前町誌)以下、浦人に救われた遭難者の後日談の資料を訪ねてみた。

慶長の中頃というから、慶長10年(1605)頃のことであろう。若狭湾の北端、越前岬の沿岸を、大きな嵐が襲った。嵐が去った後、越前沿岸の新保しんぼ浦、大丹生おおにう浦、鮎川浦、その外数浦に数艘の難破船が漂着した。この辺の沿岸では、船の遭難は珍しいことではない。昔からよくあることだが、この度の数ほどの遭難者が出たことはなかった。遭難者は漁夫のようで数十人にのぼった。このほとんどは溺死寸前の状態だった。漁夫たちの生れは西国で「国元の城ヶ谷、白浜、清水谷に居住して漁猟をしていた。鯛,甘鯛、を獲っていた」といった。(其の時分、越前の中には、鯛、小鯛釣猟不仕候につき、とあり越前沿岸では、鯛の延縄漁は無かった。)「その後、居宅はなくなり居住地名ばかりが残っている」と。漁夫が漂着した後を知りうる文書の一つに、「城ヶ谷と申す荒地の芦原を切り明ヶ、居屋敷に致す可き様仰付けなされ、有難く拝領つかまつる。岩石等多く、日を懸(かけ)、情をつくしてようやく居宅相建候段、八ヶ年云々」がある。居住地として浦の枝浦が与えられているが、枝浦は荒地で芦原を開拓して住いいたすようにといわれ、有難く拝領したが、岩石など多く、居宅を建てるのに八ヶ年掛かった」と、居宅の完成までの苦労が述べられている。

完成した漁夫の集落名に、漁夫の生国の地名を命名したといわれている。越前新保浦の枝浦は城ヶ谷、大丹生浦の枝浦は白浜、鮎川浦の枝浦は清水谷と名付けた。現地の地形とは関わりのない浦名である。城ヶ谷は城と結びつく谷ではなく、白浜は浜でなく海岸一帯が白い岩になっている。清水谷も谷でなく鮎川浦の小さな岬といわれている所である。

ここで少し越前沿岸について述べている記述を紹介する。

漁夫たちは、こうした越前沿岸の浦に流れ着いたのである。

漂流漁夫たちについて文書は更に、次のことを伝えている。
「浦人に救われ命助かりし由、其報謝に直に此所にとどまり漁業をなして恩に答へしとなり」
「村人百姓之介抱をうけ、御高地之内に罷在侯得共、諸役相勤む、家作其外猟具飯料等迄、親方百姓共より仕込遺し、そり子の猟具、親方より請取る、村人共魚商いたし来候」と書かれている。

この文書の概要は
「漁夫たちは恩返しのために、この地に留まって漁業をすることになった」
「漁夫たちは、村人の介抱をうけて元気になり、村に住むようになったが、村のいろいろな仕事につくことはなかった。住宅、家具道具、飯料などまで、いっさい親方や村人共が、買い与えてやり、漁夫の猟具は親方より渡され、魚の商は村人共がして来た。」と述べて、浦での暮らしぶりが分かる。

暮らしぶりを考察すると次のようになる。
漁夫の漁猟具は澗主から借りたもの(有償)であり、漁夫の獲った魚は親方の澗主が、村人に売りに行かせる。 親方は売上金の中から村人の行商人に分け前をやり、漁夫に貸し付けた漁猟具代などを取る。さらに残りの金は、漁夫の抱え賃しとして親方のものになる。親方の手元の中からわずかなお金を、漁夫に渡すか、全然渡さないかである。自己の経済力、生活力を親方に取り上げられている漁夫の姿が浮かんでくる。

次の文書は更に次のその後を知らせるものである。
「今年まで百年余、親方、子方と成り、無役のそり子往古雲州よりわずかの人数当浦へ参り、村高惣地之内に住、それよりそり子と名付、親方之猟船に相働云々。」「一浦の人数高の外の漁夫として、この者を浦中に抱え置いて漁猟をなさしむ」簡潔にすると「百年余親方子方の間柄になって、そり子と呼ばれ親方の漁船で働いている」と。この文書は、百年余り経った頃のそり子の様子である。親方子方の実態は、漁夫の村抱、家抱の実態であったことを語っている。

そり子の始まりは「この地にとどまり漁業をなして恩に答うべしとなり」と漁夫の側から積極的に希望している一方で「この者を浦中に抱えて置いて漁猟をなさしむ」と浦側の都合を目的にもしている。 「恩に答うべしとなり」というのは、漁夫側の言ったことばであろうか、浦側の都合で書いた言葉であろうか。

そり子の生国については西国出雲の居野津、出雲の猪野津、出雲のエノチ浦、出雲の城ヶ谷、石見の湯ノ津など記載されている。この他、出雲だけ書いてあるものも何件かあるが大方は石見の湯ノ津が定説になっている。越前の一浦に命を救われた漁夫の集団、そり子たちは温泉津の漁夫と考えられる。私見であるが、ユノツとイノツ、エノツは、聞きとりの間違いは起ると思われるが、出雲と石見は聞き取り、書き写しの誤りはまず考えられない。むしろ積極的に石見を出雲と書き替えて置かなければならない事情があったのだろうと考える。

後日、私は温泉津の城ヶ谷、白浜、清水谷を探し訪ねようと思った。 漁夫たちが遥か彼方の越前の新居地に付けた城ヶ谷、白浜、清水谷の浦名は、望郷の想の表れなのか、国を失い故郷を無くした漁夫にとって城ヶ谷、白浜、清水谷の言葉の響は、光を見つけ、誇りを持ちつづける力だったのか。 冬の小春日和の日、日村、白島、日祖浦を訪ねた。海岸の丘陵に群生している水仙の花に出会った時、想いは越前の丘陵に咲く雪中花で埋まった。

(藤昇)

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