温泉津旅情20
宝永4年(1707)の大地震とゆのつ温泉の復旧
温泉は、赤坊が母親の命を貰って生まれて来たように、古代の大地震によって、母なる大地の命を貰って地表に湧出して来たといえます。泉薬湯の源泉に立つと、千数百年の間途絶えることなくボコボコボコボコと温泉の湧き出てくる鼓動が聞こえます。音は地球の心臓の音のようでもあり、温泉の心臓の音のようにも聞こえます。この音が絶えた時が泉薬湯の終息と思うと、我が子の無病息災を願う心境に成ります。大地震が温泉を生み出すエネルギーであると共に、温泉にダメージも与えます。
記録のある温泉津の大地震は、延宝4年(1676)6月、宝永4年(1707)10月、享保6年(1721)1月、同年8月、嘉永7年(安政元年1854)10月~11月、安政5年(1858)12月、安政6年9月、明治5年(1872)2月、があります。温泉場開発以来、泉薬湯は過去の大地震のダメージを受けては、立ち上がりそのつど復興しています。地域の栄枯盛衰にかかわる大地震後の温泉の復旧を「宝永の大地震」の記録から見ましょう。
<以下は宝永・嘉永地震に関する未完の記録史料の抜粋>宝永四年十月四日八ツ時分(午後2時頃)大地震ゆり候て温泉わきせい(涌勢)に過半少なくまかり成り候由にて、外へ抜け候哉と存じられ、それより湯之廻り少しヅヅ堀見られ候えば、以前より拵え置き候湯かわ(川)の廻りへ少しヅヅ、湯ぬけ出テ候由二付、ケようのことニテ温泉わきせいもよわく候ように相見へ其の侭にては捨置き難く、湯口の本を堀上げ湯かわなど仕替え申され候分二内證相談の致され候テ、その時、御支配人勝岡久左衛門様まで先祖庄兵衛まかり出られ右の趣委細申し上げられ候えば、様子御聞き届けなさられ、やや温泉普請仕り候分に相成り申し候ハバ、松木の願いハ相叶い候ように申し上げ下さるべく旨、御懇意に仰せ聞かされ候由二テ、早速、まかり帰り一家親類打ち寄せ相談仕り、何分にも普請仕り候分二申し合わせられ、地下役人衆中へも内談これあり候趣と、相聞き申し候然るところ、此の侭に捨置かれ候テハ湯主庄兵衛儀ハ勿論の外、地下中の衰微にまかり也候えは大切のことにてこれあるべき候間、御拝借銀並びに松木など御願い申し上げ候テも宜敷きよう御申し聞かされ、相談合い決め候ニ付地下御役判申し請け願書差上げられ候趣書物などこれあり候、殊に以前より湯家普請の時分ニハ松木の願い相叶い申請の時分には松木の願い相叶い申し請候例えもこれあり候、則十一月八日、願書相調え候て川村十郎右衛門殿、庄屋多田八郎右衛門殿、湯主庄兵衛右三人御支配人勝岡様までまかり出られ願書差上げなさられ候えは、御覧遊ばされ委細口上ニテも申し上げられ候えは御聞き届なさられ、早速御役所表え御取り決めなさられ候趣に候、その時、組頭鹿野平兵衛様、野沢六郎右衛門様、御手代村田佐五右衛門様、右の御衆中え段々御物語致され候えは委細御聞きなさられ、早速、願書殿様へ御差上げなさられ候処殿様にも委細御聞き済ミ遊ばされ候て、「今度、温泉の普請の義ハ大切なること、別して、国の宝、捨て置くべきことにてはこれなき」旨、仰せられ候由二御座候、然るところ御拝借銀並びに松木の願い相叶い松木の義ハ、先祖より例もこれあり候ハバ、寸法大小ニかまいなく在所までも、望みの次第の場所にて枝葉ともに下し置かさるべく旨仰せ付けられる旨、早速、松山御奉行方御役人中様より御差紙遣わされ候ニ付、その夜五ツ時分(夜8時頃)ニ皆々御戻りこれ由にて候、この時御代官都築小三郎様代ニて候、右普請にハ十一月十日より取付け、先ず御薬師堂、市郎右衛門前え取りのけ申し候とこれあり候、そのとき、人歩五六十人にして、そのまま取のけ候ように相見申し候、それより、せど湯、中湯の分、湯坪ほり上ケ湯口の本の底へ深さ一丈ばかり堀付け候えは温泉わき口へほり当り候と御座候。(後略)
記録Ⅱ 先年宝永年中、大地震ゆり候年より、今年、安永六酉まで七十一年に相成り申し候、その時温泉湧き口普請致され候にて、以来、温泉湯勢相替わらず以前の通りにわき申し候由、尤も享保六癸丑年正月中旬より同年八月十一日まで二両度、地震よほどゆり候て温泉わきせい(湧き勢)大分よわく相成り申し候由、度々見合わられ候由、然るところ、又々次第に湧き勢も強く以前の通りに相替わらず候趣、先甚兵衛殿、代その旨書き置き申せられ候
記録Ⅲ嘉永大地震の記録 嘉永七(安政元)年(1854)
地震にて温泉口損普請出来方録
頃は、嘉永七寅年十月五日近世稀なる大地震いたし、其の節家内ニ居ルもの一人も無之町中一同外トへまかり出、殊ニ恐ろしき事限りなく、暫らくして相鎮まり、同日夜ニ入り候ても度々地震これあり、御料内所々地割れ、または壁落ち候方もこれある由にて候えども、格別物の損も無之、当家源泉口も障り無之、然ルニ上方東海道筋は家も潰れ及びそれに付き出火いたしおびただしく焼失などもこれある由、追々、吐き承り、前代未聞の事ともにて、其の後同年中、度々地震これあり、追々温泉口損じ候哉、温泉出方、無数に付き、鍵廻し湯坪下タ堀上ケ、見候ところ、元口より、脇へ割れ出来それより多分涌出候に付きそのところへ(い図)斯くの如く箱を拵え、箱寸法五尺ニ一尺高サ二尺、上・・・の立ち・・・箱一尺三寸、四方高サ六尺ニして元箱へ湯ヲ取り一緒にして湯坪へ出る仕掛け、尤も、元口と申すハ今の地蔵様御堂真下ニて四尺四方の蒸籠形ニいたし五段(ろ図)斯くの如く積み上げこれあり也、それより、鍵廻し湯坪の方へ二尺も離れ新口出来候右普請出来上がり候所、湯出方元の通り多分出ず、右は新口の箱上・・・堅箱細き故元の如く相成らず哉と種々工夫相考え居り候折柄、安政五午年十二月二日夕七ツ時過ぎより夜ニ入り以前のごとく、大地震此度、致し候ニ付き尚又、新口の所損じ候テ、湯出方無数に付き堀上ケ今ノ普請いたし候、一、この時、鍵廻し、引き戸とも、湯坪取り除き元口新口とも堀上げ別紙の図のごとく補理候元口より新口ハ少しひくき所にこれあり、右両口よりも外、中湯の方並び鍵廻し湯坪の下タとも一面に蟹泡のように吹き出し候ニ付き中湯の方へ寄せて蟹泡の分ハ図のごとくミイの形の箱を拵え、それより立て箱いたし今の湯分け箱の所ニこれある箱也、此竪箱より取り候湯ハ捨て湯のようニ候ところ、引き方へ取ル足に致し候鍵湯の下タはねば土を置きその上、厚松板にて堅ク押さえ埋め込み候
一、箱拵え方元口新口とも一緒に致し根箱共一丈二尺高サ一尺三寸巾内三尺せばき方内巾二尺にて少しチチクビ形の箱也、尤も新口のひくき方へは角物にて地復いたし地と角物の留はまきはたにて留置き候右根箱の左は隠し板いたし中程より少し元口の方へ寄せ蒸し籠形籠五段積み上げ候蒸籠箱一番下タの分ハ根箱ニならいて少し大きく頭四ツとも同様三尺四寸四方角也(以下後略)
(藤昇)
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