温泉津旅情21 
浜田地震と温泉津

光陰矢の如し。記憶は遥か彼方なものになり今生きている人の口からは聞かれません。温泉津町に残る浜田地震の数少ない貴重な記録です。

今から140年前の(1872年)明治5年2月6日午後4時40分頃、石見及び出雲の一部を襲った地震は、浜田地方地震と名づけられています。揺れの最もひどかったのは石見部、中でも浜田、江津、大田地域。次いで出雲地域、広島県西部、山口県北西部。当時、浜田県へ報告(大正元年)された記述には、安濃、邇摩、邑智、那賀、美濃五郡における全潰家屋は4320余戸、死者550余人にたっしたという。温泉津町ではどこの家も夕食の支度にとりかかるころ、落雷のような強音を発し、地鳴りが北西から東方へ走った。感覚による最大振動は上下動に東西水平動を伴ったといわれる。倒壊家屋の多さなどから、地震としては最も惨状を伴う烈震に襲われたようで、地震は比較的近距離内で温泉津の北西、日本海中に起こった海底地震であったと推測された。土地の隆起陥没などの現象は知られていないが、山地の崩壊は七千坪に及び大浜村(現小浜)では一町歩と記載されている。温泉津湾口、大崎鼻が大崩壊をした際は落岩による大鳴動を津波の来襲と思い、浜に避難していた町民たちは、慌てて日和山などへ場所替えをしたと云う。

また大浜村には東西一町、幅三四寸の亀裂を生じ、約一ヶ月間温泉が溢れ出していたといわれる。温泉津の新温泉(現薬師湯)は従来少量宛て溢出していたものが、この地震によって本格的湧出を見るに至ったのである。「新湯」と云う名は旧湯(現泉薬湯「元湯」)に対する名であるが、文字に表すときは「震湯」とも書かれていると記録に載っている。「震湯」と表すは、湧出動機を語る名称である。

地震の直前、五十猛村では約八尺、湯湊では二尺余の退潮を見たが、地震直後には湯湊、温泉津湾、福光、福浦村などではいずれも増高し、ことに福光村は一丈、福浦村では六尺余の高潮を示した。当時大崎鼻沖に出漁中の本山吉太郎氏は西方海上に陽気のしきりに上がるを見て、海水は濃藍色を呈し、今まで静穏だった海面に小波の立つを見たが、その状態はあたかも油のごとくで音を立てるを聞かなかった。この状態は津波の前兆だと古老から伝承していたので、慌てて漕ぎ戻ったが、すでに地震に見舞われた人々が騒いでいたと、家人に語ったことがあったと聞かされた。「地震以前に起った前微的現象」として報告している。(町史概説 昭和11年3月1日)

明治五年申二月六日夕方大地震石見国ニテ死人怪我人凡一千余人也ト既ニ当村即死十三人並大火中町通リ大方火灰ト相成夫ヨリ二十日頃迄日々夜々数度地震ニテ家ニ臥ス者一人モ無之所々大小ノ山崩レ前代未曾有ノ事也。(西念寺文書)

明治五年二月六日夕刻、前代未聞の大地震。本堂諸家大損害、屋根尾は落ち庫裏少損、表門並び上下方丈先の高塀は総崩、蔵大破、ほか地下中全壊、中町出火およそ十三軒、死者十三人、家数八十軒余り。
(※別の記録によればこの後も余震は翌六年まで続いていた)

同五年五月十一日朝刻、金毘羅山崩れ、龍沢寺谷石切り場前山吹屋に落石三人横死(恵珖寺文書)

去る六日(明治五年二月六日)の大地震で一旦涌方この前にも倍し、熱湯になりました。、六日より日数十四・五日たった後は案外涌勢弱く熱湯でもなく、すべて地震のために再び温泉涌口狂ったと見られます。早々に修復に取り掛かりたいので書付を以てお届け申し上げます。
    明治五申年二月
邇摩郡御役所
邇摩郡温泉津村温泉持主伊藤善一郎印
右村年寄中島平一郎印 (伊藤家文書)

(藤昇)

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