温泉津旅情4 鵜の丸築造余談
~弓矢に御用いらるべく候語られない石州国人の出兵~
入江の奥にあった日浦の浜は今はレジャー用船舶の繋留場のようである。船は打ち寄せた漂流物の散乱する陸に引き揚げられている。私はレジャー用モーターボートの並ぶ狭い間を縫って歩いた。訪れる観光客向の二つの案内板に出会う。二つの案内板は、少し離れて立っていたが、次のような説明があった。
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鵜の丸城址
石見銀山と温泉津を平定した毛利は、元亀2年(1571)温泉津沖泊湾の湾頭に鵜の丸城を築城。対岸の櫛島城、笹島城とともに温泉津湾防衛の要とする。特に鵜の丸城は銃陣がしける帯郭がめぐらされるなど、実戦むけの工夫がなされ毛利水軍の山陰の拠点として重視されたという。(所管不記) -
沖泊
温泉津湾に突き出した丘陵は鵜の丸城跡。永禄13年(1570)出雲の尼子勝久が尼子再興の軍をおこしたとき、毛利元就は出雲を討つ海軍の根拠地として、内藤内蔵丞 ら3人を奉行として城塞を設けたのが鵜の丸城である。元就は長らくこれを重視した。(所管不記)
案内板の1つは山頂に登る石段の脇に設置してあった。石段の下に立つと驚くほど急勾配で、ほとんど垂直に近いと思わせる威圧がある。高所恐怖症にとっては、高層ビルの屋上へ続く非常階段を登るような気持ちになる。立派な石段を一つ一つゆっくりと登っていった。足元を見ながら、案内板の「尼子再興」の文字が痛々しく思えてきた。尼子は、この鵜の丸城築造より僅か3年前、広瀬(現、安来市)の富田城を開城している。
元就は、毛利の軍門に降った尼子義久、倫久、秀久三兄弟の余生の安泰を約して、向原の長田(現、広島県田高郡)の延命寺に留めていた。敗れたとはいえ、往古からの誉れ高い武門の勇士に、日々礼節を尽くしていたのだが、元就の誠意は、尼子には通じなかった。戦国の世の両雄の宿命を感じる峰起であった。
富田城開城に当たっては、毛利元就伝に次の記述がある。概要すれば「義久は元就に、我等は衆に代って自刃し、城地を御渡申すと伝えた。毛利に諸将の中には、尼子一族を
鵜の丸城の築造はこうした元就の意に反し命じる事になったのではなかろうか。
毛利はこの先西国を支配つづけるためには、銀山公領を支配する支配者でありつづけなければならない。
尼子勝久のほう起はこの願を砕き、武力での決着を迫るものである。物事は時に、本人の意志と関わり無く起ることがある。鵜の丸築造も元就にとっては予想外のことであった。こんな思いをめぐらしながら石段を進む。石段の終わりらしい所はまだ見えてこない。
毛利元就は、この時芸州吉田城の病床にあった。
病床の元就は、「尼子勝久勢出雲に蜂起」、この一報をどんな思いで聞いたのだろうか。
当時、毛利の主力は九州立花城にあって、元就の近辺は兵力が手薄であった。資料によると、「尼子勝久出雲侵入」の一報を聞いた毛利元就は、九州立花城にいた吉川元春らを急遽安芸の吉田に呼び返した。毛利元輝を総大将として粟屋元真以下将兵六千、小早川隆景、宍戸隆家の各武将率いる軍団、水軍、児玉
- 1月19日、「杵築浦警固のため所領内に浦を持つ石州の国人に至急出兵を催促するよう」児玉美濃守へ
- 2月20日、「水軍基地鵜丸城1ヶ月で築造のこと」内藤、金子、三木、三名へ、
- 4月9日、「安芸国より温泉津へ、兵糧米の積荷船の回漕と警護を」、温泉津奉行へ
- 4月25日、「温泉津御米蔵の兵糧米のうち1500俵を銀山へ搬送。伝馬役を温泉町内から徴収すること」温泉津奉行へ
- 5月16日、「温泉津村から急ぎ杵築へ兵糧米、兵船の出動のこと」温泉津奉行へ
- 10月17日、「温泉津より軍船を催し出雲へ向わせよ」児玉就英へ
戦況は刻々吉田にいる元就のもとへ届けられている。大雪の中、出陣した毛利大軍は2月14日、出雲富田城近くの布部山の大合戦で勝利した。後は次々と尼子諸城を陥していった。温泉津より出陣した児玉内蔵大夫就英率いる毛利水軍は10月24日出雲加賀浦において尼子水軍を敗り敵船数艘を捕獲したと報告されている。
明けて元亀2年(1571)6月毛利家総師元就は夢なかばにして吉田の本城で亡くなった。しかし、毛利勢の戦意は元就の死去にも衰えることなく、7月に尼子の猛将山中鹿之介幸盛を美作に、8月には尼子勝久を隠岐に追い落とし、尼子勢は出雲から消失したかにみえたが、その後、隣国に逃れた尼子残党の再々起をかけた戦闘は、1578年(天正6)7月3日、播磨上月城で尼子勝久
この後の毛利一族の足跡は、鳥取城の落城、備中高松城の水攻め、本能寺の変直後の柴田秀吉との講和、朝鮮征伐、関が原の戦へと展開していて、日本史の本流そのものの中にある。戦国時代の終局の大ドラマ、関ヶ原の戦の大役を果し毛利氏は銀幕を閉じて退いていった。地方史を離れて日本史の中で、鵜の丸築造をみるとき、鵜の丸築造は、長い戦国時代を演じる終局ドラマ、その幕開けの舞台の一つに使われている。この舞台で活躍し、時代を走り抜けた石州国人たち、温泉津の浦の者たちのその後は、ここ温泉津でも語る者がいない。
文政13年温泉津村村差出明細書上帳には、「古跡鵜の丸、当時御林、是ハ往古毛利家出張場所と申し伝え御座候」とある。鵜の丸灯台の下に立った。築造の面影は消え、西方に輝く夕陽の光は柔らかく、くま笹の茂みに静かに揺れていた。今は城の名のみ残る淋しい古跡である。
(藤昇)
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