温泉津旅情4 鵜の丸築造余談
~弓矢に御用いらるべく候語られない石州国人の出兵~

入江の奥にあった日浦の浜は今はレジャー用船舶の繋留場のようである。船は打ち寄せた漂流物の散乱する陸に引き揚げられている。私はレジャー用モーターボートの並ぶ狭い間を縫って歩いた。訪れる観光客向の二つの案内板に出会う。二つの案内板は、少し離れて立っていたが、次のような説明があった。

案内板の1つは山頂に登る石段の脇に設置してあった。石段の下に立つと驚くほど急勾配で、ほとんど垂直に近いと思わせる威圧がある。高所恐怖症にとっては、高層ビルの屋上へ続く非常階段を登るような気持ちになる。立派な石段を一つ一つゆっくりと登っていった。足元を見ながら、案内板の「尼子再興」の文字が痛々しく思えてきた。尼子は、この鵜の丸城築造より僅か3年前、広瀬(現、安来市)の富田城を開城している。

元就は、毛利の軍門に降った尼子義久、倫久、秀久三兄弟の余生の安泰を約して、向原の長田(現、広島県田高郡)の延命寺に留めていた。敗れたとはいえ、往古からの誉れ高い武門の勇士に、日々礼節を尽くしていたのだが、元就の誠意は、尼子には通じなかった。戦国の世の両雄の宿命を感じる峰起であった。

富田城開城に当たっては、毛利元就伝に次の記述がある。概要すれば「義久は元就に、我等は衆に代って自刃し、城地を御渡申すと伝えた。毛利に諸将の中には、尼子一族を殲滅せんめつして将来の禍根を絶つべき、と主張する者もいたが、元就は、尼子氏は累代山陰に蟠居ばんきょして、その威は山陽に及んでいる。今、力きて我が軍門に降参されたとしても、俄かにその門葉を断絶すべきではない。義久兄弟の降伏は、これを容れるとしても自刃を許すことは出来ぬ。願くば城を退き安芸に赴き、安穏に余生を送られたい」と。敗者尼子の領主義久兄弟に対し、礼を尽くして余生を保証しているのは、石見銀山の支配権移行を平和裏に願っていたからであろう。元就は、大内氏滅亡後の西国支配の安定を図るためには、銀山領有を確かなものにすることであり、幕府や天皇家など中央政界と結びつく必要性を充分に熟知していた。石見銀山を献上し御料所の経営と管理を、1564年(天正7)朝廷・幕府に認めさせ、1567年(天正10)の元就遺文は、このことをよく伺わせている。「温泉銀山御公領のこと、この間洞春様(元就)仰せ付けられ候ごとく、少しも自余の御用に仕まつられず、御弓矢に御用いらるべく候」と。

鵜の丸城の築造はこうした元就の意に反し命じる事になったのではなかろうか。
毛利はこの先西国を支配つづけるためには、銀山公領を支配する支配者でありつづけなければならない。
尼子勝久のほう起はこの願を砕き、武力での決着を迫るものである。物事は時に、本人の意志と関わり無く起ることがある。鵜の丸築造も元就にとっては予想外のことであった。こんな思いをめぐらしながら石段を進む。石段の終わりらしい所はまだ見えてこない。

毛利元就は、この時芸州吉田城の病床にあった。
病床の元就は、「尼子勝久勢出雲に蜂起」、この一報をどんな思いで聞いたのだろうか。

当時、毛利の主力は九州立花城にあって、元就の近辺は兵力が手薄であった。資料によると、「尼子勝久出雲侵入」の一報を聞いた毛利元就は、九州立花城にいた吉川元春らを急遽安芸の吉田に呼び返した。毛利元輝を総大将として粟屋元真以下将兵六千、小早川隆景、宍戸隆家の各武将率いる軍団、水軍、児玉就英なりひでの率いる佐東河の内の警固衆、その他の舟大小200余艘を従える総数1万数千の大軍を編成し、大雪を犯して出雲に進軍を開始した。時は1570(元亀元)1月5日である。この時、元就は吉田に留まって、次々と指令を出した。

戦況は刻々吉田にいる元就のもとへ届けられている。大雪の中、出陣した毛利大軍は2月14日、出雲富田城近くの布部山の大合戦で勝利した。後は次々と尼子諸城を陥していった。温泉津より出陣した児玉内蔵大夫就英率いる毛利水軍は10月24日出雲加賀浦において尼子水軍を敗り敵船数艘を捕獲したと報告されている。

明けて元亀2年(1571)6月毛利家総師元就は夢なかばにして吉田の本城で亡くなった。しかし、毛利勢の戦意は元就の死去にも衰えることなく、7月に尼子の猛将山中鹿之介幸盛を美作に、8月には尼子勝久を隠岐に追い落とし、尼子勢は出雲から消失したかにみえたが、その後、隣国に逃れた尼子残党の再々起をかけた戦闘は、1578年(天正6)7月3日、播磨上月城で尼子勝久自刃じじん、山中幸盛、7月10日投降、護送中の7月17日、備中阿部川阿井の渡で誑殺され尼子滅亡となるのである。4代にわたる尼子、毛利の宿命の対決は毛利の勝利で終わる。 「春風秋雨十年の間、櫛風沐雨の辛酸を重ねながらも、常に繁栄に輝いた経久時代の夢を、ロマンを追い求めて、節操を変えなかった尼子武士の奮闘は、たとい中道にして破れたとはいえ、後の世の四十七士の団結と共に永く青史を飾る一大史実であったと謂わざるを得ない。(妹尾豊三郎)」との声もある中、尼子再興の夢に我が夢を重ねロマンを追いつづけ野の露と消えたものたち、海上の煙霧に隠れたものたち、この者たちの中に「所領内に浦を持つ石州の国人たち」がいたが、この者たちについては語る人はいない。

この後の毛利一族の足跡は、鳥取城の落城、備中高松城の水攻め、本能寺の変直後の柴田秀吉との講和、朝鮮征伐、関が原の戦へと展開していて、日本史の本流そのものの中にある。戦国時代の終局の大ドラマ、関ヶ原の戦の大役を果し毛利氏は銀幕を閉じて退いていった。地方史を離れて日本史の中で、鵜の丸築造をみるとき、鵜の丸築造は、長い戦国時代を演じる終局ドラマ、その幕開けの舞台の一つに使われている。この舞台で活躍し、時代を走り抜けた石州国人たち、温泉津の浦の者たちのその後は、ここ温泉津でも語る者がいない。

文政13年温泉津村村差出明細書上帳には、「古跡鵜の丸、当時御林、是ハ往古毛利家出張場所と申し伝え御座候」とある。鵜の丸灯台の下に立った。築造の面影は消え、西方に輝く夕陽の光は柔らかく、くま笹の茂みに静かに揺れていた。今は城の名のみ残る淋しい古跡である。

(藤昇)

無断での転載を禁止させて頂きます。
泉薬湯 温泉津温泉 元湯