温泉津旅情5 毛利鵜の丸水軍の消息

山陰の冬は、ことのほか寒いと思い込んでいる人にとっては、その日は信じられない快晴の日であった。前夜から急に降り出した雪が、町並みの赤瓦を白く覆って、朝の陽射しを一層明るく春めいた気分にしてくれていた。風のない青空、こころよい暖かさが、部屋に籠っていた私を外に誘い出してくれた。昨年の時のように、石段を十五段登って沖の波止場に立った。急に眺望は一変する。遠方に日本海。対岸の岬の大崎、笹島、唐人ヶ浜、白島。目の前には、日浦西平、クズレ、念仏ヶ鼻、沖泊浦南平を廻らし、禁代山を従えた鵜の丸の半島が、城塞の名残りをとどめ日浦の江口を隔てて迫ってくる。

古図によると、鵜の丸の本所を日浦西平の中央山頂あたりに置き、本所を中心にして外洋が見渡せる位置に、物見・岩倉・屋形があり本所の内廓の役割をしている。内廓の外は鵜の丸半島そのものの地形を取り込んだ、天然の断崖が外廓になっている。外廓は海面より立ち上がって、半島の先端の日浦よりをクズレ、沖泊まり寄りを念仏ヶ鼻と呼ぶ。念仏ヶ鼻の断崖の頂上を「鵜の丸ノ内禁代山」と呼び、城主家臣以外の立ち入りを禁じ、近寄ることを断じていることがわかり、築城の重要さが伝わってくる。

1562年、石見地方を制圧した毛利は、石見銀山直轄支配の要として温泉津の浦、村の整備を施工した。温泉津関、温泉津奉行、納所、御調、駒つなぎ、等の名称にその痕跡が伺える。温泉津川の川底に石板を敷き詰めて、川の両岸を石垣で立ちあげ、埋め立て、いまの居住地が造られている。これなどは、当時、行われた町造りの名残りであり、石見銀山直轄体制構築の中で温泉津の重要性を示しているものと考えられる。

1570年、毛利元就は尼子勝久討伐の兵站基地として兵糧米、兵、軍需品の補給を温泉津浦に、水軍基地の本所を日浦に設けた。鵜の丸築造は、尼子軍防衛の塞城を設けたにとどまらず、尼子攻略のための水軍本部基地であり、兵船軍船は温泉津小浦の浦々に、分散集結させていたと考えられる。毛利水軍は瀬戸内海水軍を、鵜の丸水軍基地に派遣したのであろうか。当時軍隊として海軍をもっていたであろうか。こんなことを考えていた時、一つの情報に出会った。

江の川沿いに国道261号を走ること20分、桜江町大貫の中村久左衛門屋敷に着いた。当家の文書調査に来県されたT先生に、声をかけられ御一緒した時のことである。中村家の家譜が納められている巻物に、次のような記録があった。

「石州大貫村住、永禄年中大江元就公、尼子御取り合いの砌、温泉津沖浦船手の御用相勤め、御勝利のうえ御脇差広正作拝領、その後、元亀四年、同所に於いて屋敷一ヶ所、輝元公より御判物あいそえ拝領の市祐死後、右の屋敷相違なく相続仰せ付けられるの段、御城代児玉美濃守就久、武安孫三郎元種御両判市祐妻へ、之を下さる」

花押(輝元)温泉津町之内其の方居屋敷一ヶ所之事、相違なく相抱うべき者なり。
よって一行かくのごとし。
元亀四年卯月二十八日 野坂市介(祐)

この記録によれば、永禄年中(1558~1569)野坂市介は、毛利が尼子を攻めた時、船手のご用を勤めている。この戦の時、毛利方の船手のご用を勤めたのは、野坂市介只一人と言う分けではないと考えると、他の、多くの船手が勤めていたことが伺えてくる。毛利は、温泉津浦近辺の者たちに出兵を命じていたと考えられる。

資料によれば1563年(永禄六年)には、既に、毛利は温泉津海関所を設け児玉就久、武安就安両人を御城代として温泉津奉行の任にあたらせ、近辺の諸浦を統治させている。

尼子討伐を起こした元就は、1570年1月19日、毛利水軍の将、児玉就英に,「杵築浦警護のため所領内に浦を持つ石州の国人に出兵を要請」させ、この後水軍の基地鵜の丸城からは兵船、兵糧米搬送の船が頻繁に出雲へ向かっている記録や、安芸国の兵糧米を温泉津に搬送するための、温泉津よりの積み荷船の配船と警護を指示している記録が見える。別の記述によれば、この時の尼子討伐の出陣にあたって、「水軍就英は佐東河の内の警護衆、その他の舟大小200余艘を従え・・・。」とある。毛利水軍のことであろうか。出陣は1月5日、厳寒大雪の中であった。水軍の移動は困難と言うより不可能に近い。この記述をどう考えればよいのか。毛利水軍と言えば、一般には瀬戸内海沿岸で活躍した浦々の豪族、海賊と考えられるのであるが、鵜の丸基地から尼子攻略に参戦しているのは、毛利水軍石見沿岸部隊とでも言われる石見沿岸国人層の集団が浮かんでくる。

話は,時代をさかのぼる。
1481年(文明13)の朝鮮側の記録の中に、「全羅道の浦々で掠奪を行い、これを石見に持って行って売買するのを生業にしている」と記され、1490年(延徳2)対馬側の記録には、「東辺出雲州・石見州・南海一岐・松浦五島・平戸、自余の小島数を知ることなし。賊徒はなはだ多し」などと見える。1474年(文明6)「吹挙げ一通、陸地・石見・若狭・高麗への大小船の公事、おふせんならびに志ほ判、船の売口買口、人の売口買口の事、扶持申す所の状件のごとし」。1527年、1561年の、明の書物には石見沿岸の、はね・さっか・こ(ごうつ)・ながはま・はまだ・つのず・うぬつ(ゆのつ)・ぬか(益田の中島)・すち(岡見の須津)などが記載されている。

これらのことは、往古より石見沿岸の漁師が日本海の荒波を乗り越えて、遠く広く動いていたことを伺わせるものである。

1600年始め頃、若狭では石見の漁師について、同じ漁師でも立石の漁師(石見国から移住)は、若狭湾東半一帯に広く進出し少々の時化も物ともせず出猟し、他浦の漁師からは「怖いもの知らず」の漁師と恐れられ、石見漁師の操船技術の巧みさと勇猛盛んな度胸は一目置かれていた。石見沿岸唯一の海関、温泉津関の鵜の丸の名を取ってこれを毛利鵜の丸水軍と呼ぶなら、往古より石見沿岸の浦々に点在する本格的浦方(漁師)の集団で編成されていたものと思われる。

その後、石見銀山の支配が毛利から豊臣に移ったのは、1591年(天正19)である。あけて、1592年(文禄元年)、邇摩郡内には一人の国人領も存在しないとある。領主を持たない浪人・百姓たちが増えていた。かって邇摩郡内で活躍した領主は滅び転封となって、邇摩郡を去り石見吉川だけが残った。他は全て毛利の直轄地となっていた。1592年(文禄元年)、1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は朝鮮出兵を企て莫大な軍資金を必要とした。

次の文書はこのことを物語って入る。「重サ四十二匁背石目、愚近藤守重、しらべるに、此銀朝鮮征のためにつくられしなるべし」、そのための石州銀の鋳造を博多で行っている。又、文禄3年「火薬の原料である鉛塩を調達するため蔵米1万3000石を石見に送り、これと交換して銀を長崎におくった」との記録も残っているようである。

豊臣支配になってからの記録にも銀鉱石を始めとして博多、長崎へ物資の交流が伺われる。石見沿岸に遠洋航路にもなれた優れた浦方のいたことは前述したが、かれらは、豊臣支配になってからもこれらの物資の搬送に関わり大いに活躍したのではなかろうか。思索を膨らませば、秀吉の朝鮮出兵にも石見沿岸の浦方が従軍していると考えられる。

隠岐の源福寺の梵鐘が当町愛宕山に安置されている伝えに、「豊臣秀吉が朝鮮出兵の時、軍用として供出させ、返還時に間違えて温泉津に帰ってきた」と言われるのは石見沿岸の従軍者がいたからであろう。参考までに述べるなら、富田城を開城して長田延命寺に監禁されていた尼子義久はその後、志道入野の土居屋敷に移り五百七十石を与えられ慶長5年後、萩に近い、長門の奈古の地千二百九十三石を客分として貰い、一同奈古に住みかえているが、毛利が朝鮮出兵に出陣した時、義久は病弱だったので弟の倫久が代理として、家臣を連れ参戦している。

石見銀山の支配者が毛利から豊臣に、豊臣から徳川へ移った時期に温泉津近辺の沿岸の浦が消えているように見える。移住なのか、逃亡なのか、確かな資料に欠けるが、たとへば、越前立石に移住したと伝わるそり子の伝承に、生国が石見の温泉津の清水谷、白浜、城ヶ谷で漁労などをしていたなど状況資料として有力である。住居跡は消え、名前だけが残っているといわれる、温泉津の清水谷は日祖浦に、白浜は臼ヶ浦、城ヶ谷は日浦が、地形、字地名、居住跡、等からそれと推測出来るが今後の調査に託したい。これらの浦には、浦人が住んでいたわけであるが臼ヶ浦には長という浦長がいたようである。長という人物は、1587年恵珖寺に細川幽斎が泊まった時、催された歌会の清蓮台市中のメンバ―にみえる長五兵衛と思えるがさだかでない。また、次の資料もある。「元祖川上善右衛門、生国、石州湯の津日野、川上より当国へ渡海、銀山を稼ぐ。」(在相川医師諸町人由緒書)。

温泉津日野は、臼ヶ浦の川の上流に字地名が残っている。日浦は1605年以後、居住者の有無が見当たらない。隣村の馬路浦の漁民が佐渡姫津へ渡海移住したのは1605年、大久保長安の石見銀山支配体制の一環であった。豊臣は毛利勢力の排除を、徳川は豊臣、毛利の残影抹消と財力蓄財の監視を推し進めることで、天領石見銀山の長期安定支配を達成していった。石見国人層、石見沿岸の浦方たちの残影がほとんど見当たらない温泉津一帯、天領一円では、支配者の権力の軌跡の中にわずかにその影が残されているように思われる。

(藤昇)

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