温泉津旅情7 賑わいの余韻
晩秋の午後、温泉津を訪ねた。秋の陽が谷間の奥に連なる黒茶色の石州瓦の屋根に降り注いでいた。 町の両側に切れ目なく並ぶこじんまりとした商家民家。どの建物の中からも人の出入を感じさせるような気配がない。町の奥へ奥へと入っていくうちに行き交う人を見ないのに気が付いた。、この気配は何か大きな喧騒の後にやってくる温かい静けさに似ていると思った。予想しなかった静けさがあった。
江戸時代の温泉津村は山陰道から外れた枝道の先端に位置し、隣村の小浜村からでも一山越えなければ入れない陸の弧島である。その先は海で日本海、旅の終着地である。温泉津は温泉と港のある村でもある。村に入って来る人は養生目的の湯治の衆か、海運関係の船の衆で、村の衆は温泉か港に関わる仕事や商売で生計を立てる人が集まった村である。
今から200年前、徳川幕府第十一代将軍家斉の治世、綱紀は弛み風俗は
200年前、温泉地温泉津も、村中が躍動し熱気が燃え盛っていた温泉津の江戸時代があった。
文政13年(1830)村の人口は1,713人(男853 女880)、家数353軒、うち出家8人、社人無御座、長寿の者90歳以上2人、であり現在の約3倍であった。[参考・現在平成16年本温泉津村の人口は676人(男311 女365)、世帯数301である]。
湯治の衆を泊める入湯宿は、文化14年(1817)には、温泉屋を核に薬師堂、角屋、松屋、福光屋、油屋、龍沢寺、甲屋、七軒の正規の入湯宿があり、この他に繁忙期に民宿的な宿として、仙次郎、泉屋万兵衛、甚吉、国吉、中村おもと、恵比寿屋、高屋、栄十、要助、中田屋、為助、出口松浦家、温泉屋貸家、木津屋家、伊兵、越前屋、因幡屋、聞法寺、紙屋、土佐屋、出口御番所などがあった。
この年の「入湯人覚」によれば、上記の宿に泊って入湯した者は、延べ20,166人、年間一日平均55人の入湯人が常時、村に滞在していた。正規の七軒の入湯宿の年間一日平均宿泊者は、7.6人。年間最高繁忙期の三月には、5096人が来湯している。このことは、三月の一日当たり村の入湯人滞在者は常時164人。村の人口の約一割あたる。湯治の宿屋の規模は現在よりかなり縮小したものである。上記七軒の三月の一日当たり入湯人滞在者数は、甲屋38福光屋35油屋20龍沢寺20角屋19薬師堂14松屋12である。今でも考えられない程の人が押し寄せ、それを受け入れていた。温泉屋の年間湯銭売上高は約600貫文(100両)。正規の入湯宿の年間総売上高は1008貫300文(144両)になる。
文政三年、脚気湯治に来た頼杏坪は「遠近の人来たり集いて湯浴みするに、しおはてて帰るもあれど新たに来るもありて、湯屋の内、裸すり合い物言いののしる昼夜なりと、・・・浜田という所の人あまた浴みに来たり集いたるか、三味線を弾き鼓をうちて、かたみに歌いどよめくを・・・」また、「
温泉津の町の静けさには、かつての温泉を中心にした賑わいと、北前船の出船入り船の港の賑わいを封じ込めていても、喧騒の余韻が残っている。町を訪れる人々を楽しませ、癒すこの温かい静かな賑わいの余韻をいつまでも大切にしてほしい。
(藤昇)
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