温泉津旅情8 浜の観音堂
温泉津湊の入口、橋の階の対岸、通称サザエ尻と言われていた所に、建立年代及び由来不詳の手鑿で穿った岩窟の観音堂がある。私が子供の頃、明治生まれの叔母が娘の時、「浜の観音さんに願を掛けるとよく叶った」といっていた。また、町を散策した来客が「浜の岩屋の観音さんにお参りしたら霊感のようなものを感じました」という話も聞く。浜の観音さんは昔から霊験あらたな観音さんとして言い伝えられている。地元の者は、「浜の観音さん」と親しみと尊敬の念を込めて呼んでいる。諸病平癒、加持祈祷、御利益護念を信じて、今でも毎月十七日、西念寺住職のお勤めに、沖ノ浦、沖泊、日祖から参詣者があるという。
享保8年(1723)、今から284年前の事、この浜の観音堂を借りの宿として温泉に入ったと書き残している記録がある。享保8年3月18日、柿本人麻呂千年忌祭が益田の鴨山の社に於いて行われた。
この時、松江に住んでいた釈釣月という歌僧が友達を誘い二人で、歌聖柿本人麻呂を祀る益田高津の柿本神社に参詣した。松江から益田往復の旅「鴨山参詣記」に温泉津の記述がある。この記録を見ると海路の旅心地、浜の観音堂情報、泉薬湯温泉情報があり、300年前の一部を垣間見ることが出来る。
十九日、温泉津に暮れかけて舟さし寄す。岸に上がりて磯近かき観音堂を借りて宿りぬ、(三十四、五年昔(元禄元年、二年)、筑紫(九州)の方へ行脚に出た時にも、この津に来たことを思い出した)
「夜に入て温泉にをりてうちふしぬ」(観音堂は旅人の仮の宿になっていた?) (この津のすこし東に沖泊というて山を隔てているがよい泊があるので、そこに舟を着けるといったが、湯に行くのに不便なので、ここに舟を着けた。――湯に入るのもこの旅の目的か?)二十日、(西の風が吹くので湯に入って語りあって一日が暮れた)
二十一日、(西)風が納まって北(風)になるとて、舟を出したけれど追手(風)がない、また温泉津に帰った)
二十二日、(また西風が吹いて舟が出せない。ひまなので湯に入る。間に和歌をよんで観音大士にお供えした。この本尊は行基の彫刻という。石見国三十二番目札所西念寺観音ということがよめる)(薄暮より雨が降り出した。題をさぐりて)
「春はなお出湯の煙立ちそいて湧きて霞も深き浦さと(湯煙が立っていた)
もしおやく浦のとまやの夕煙たなびく雲にかすむ春風(藻塩を焼いていた苫屋 があった)
草枕夢かとばかり見る月の宿りにふくる有明に空(谷の地形の中で月のよく見えるところ)二十三日、「なを雨降りてさびしければ、一人で長歌を書きつづる」(長歌略)
「反歌 磯まくらおもわぬ潟に舟泊めて風待ち浦の春の日永き」二十四日、「雨晴れて追手(北風)になりければ、舟漕ぎ出ぬ。波風荒立ちて心地悪しくおぼえぬ」 (筆者はやっと益田へ向かって舟を進めた。~~~~~参詣をすませて帰路の舟旅が始まる。)
二十九日、「又、湯の津に舟を寄せ、ありし観音堂に上がり宿る。またよるひる湯あみす。この度の行き来におもわずこの津に四、五日やすらいて、湯あみければ、かねて
疝痛 をいたく具しけるも名なきまでたいらかになりぬ。この湯をふくみ(飲泉を)こころむるにしハハゆくして(泉質は)有馬の湯に氣味ひとしくおぼゆ身をあたたむることこよなし。此間大田という里の富豪のおのこ腰抜け、脚立たずして下部 におわれて湯あみけるか、二,三日のほどに杖にすがりて三(身)つかり湯におりけるを見れば、速効はなはだし、無双の妙湯ならんか。吾儕(なかま)もかさねて入湯せましく思い名残惜しくてそ」晦日、 風よくば減れば日の差し出でる頃舟に乗って押し出す。
江戸時代、温泉津湊は四ヶ浦と言われていた。温泉津浦、沖泊浦、小浜浦、半路浦のことである。温泉津浦に船を浮かべて陸を見ると、三つの谷の入り口が、温泉津浦の浜を形成していることがよくわかる。左側の西念寺の谷、隣の愛宕山下の金剛院のある寺道谷、右側は温光寺泉薬湯のある温泉街の谷。谷と言っても川らしい川はない。この谷には米を作った、麦を作った田んぼや畑の痕跡がない。居住地としての人間が住める基盤がない。人間が住みつくとしたら何もない温泉津の谷より、隣村の湯里、福光、井田に住むであろう。判っているのは、効能の高い、出泉年数不明の霊泉が、この谷に湧出して流出していたと言うことである。もう一つ判ることは、狭いこの谷の土地に比べ大小の寺院、寺院跡、墓地、墓石が埋まっている墓地跡の多さであるが、この三つの狭い谷にこの村の先祖は小さな住居をくっ付け合い、重ね合わせ構え住んできた。先祖達には、歴史では読み取りにくい、現われない大変厳しい艱難辛苦の環境がこの谷はあったように思われる。
(藤昇)
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