温泉津旅情9 温泉場の開発と薬師堂の建立
温泉開発の元祖伊藤重佐の発願

端海はしのかいから谷の奥に約四町(450m.)入って行くと、通りに寺院や宿屋が立ち並んでいます。その中を進むと左手に白地に赤で元湯温泉と書いた縦看板が目に入ります。元湯温泉は泉薬湯と刻まれた扁額を掲げた温泉浴場です。「私温泉場の儀ハ一村草創の儀にて」と江戸表老中へ差出した古文書に見られるように、泉薬湯元湯は村そのものの原点です。この泉薬湯の横の石畳の参道を進むと五段の石段があります。石段の中央は、磨り減り窪んで永い時の刻みを感じます。石段の上段の両側には、安政卯二年四月奉寄進の年号を刻んだ石燈籠があります。古色の小振りな山門を潜ると医王山温光寺の境内に入り、泉薬湯の浴場の裏手に立ちます。正面の御堂は薬師堂、右正面は地蔵堂。地蔵堂の床下が源泉で千数百年以上絶え間なく温湯が滾滾こんこんと湧き出ています。湯主はこれを人体に例えて「心臓の鼓動、湧泉は体内に流れわたる鮮血。地球の心臓は千数百年途切れることなく鮮血を私達に贈っているように思われる。」と参拝者に話します。平安時代より伝承されてきた「石見之国温泉郷之温泉」と言う所の「温泉」がこれです。地蔵堂の前に来ると左手に、薬師堂の裏山が見えます。裏山の崖の上に温泉縁起に出て来る狸の池と伝えられている洞穴が見えます。往古より霊温泉と言われ霊験鮮かな温泉として、また、諸人の疾苦を取り除いてきた温泉として時代々々の諸人の認知を受けてきた温泉です。

今日は湧出地点、自然湧出量、成分、湧出から使用時までの時間(温泉水としての有効時間)、などを軽視した利益第一主義の温泉が主流です。そのため、湯量を増やす必要から源泉に動力を入れた揚湯温泉、加水、加熱、入浴剤の投下、使用温泉水の再利用など、利用者に大きな衝撃が走ったことは記憶に新しいところです。こうした温泉事情の中で温泉津の泉薬湯元湯は、今も古来からの自然湧出の温湯にじかに入浴できる温泉として、本物の天然温泉愛好者の話題になっています。

御薬師堂の内に入って見ましょう。弘治元年の年号を持つ温泉記の釈文の扁額が奉納されています。扁額には、
「石州温泉津の出泉は開闢興基未だ何の代と言うことを、詳らかにする事能わず。(中略)星移り代改まりて、伊藤氏重佐と言うものあり、洞穴を開き盤を改め、上に医王を調え還御す。号薬師山温光寺、下に温湯の徳化を流す。時の国主元就公是を聞き重佐をして湯主と為す。然るに、国乱れて後、太守毛利輝元、公宰となる。この時、湯主重佐裔孫(新左衛門)信重と言うものあり阿堵あと少物を投じて国恩の重きに酬い奉る。其れ以来、宰君これを例とす。(後略)」
と書かれています。

この大意は「温泉津の温泉の出泉年代は大昔のことだから、何時のことか、明らかにすることは出来ない。後の世になって伊藤重佐という者が新たに洞穴を開き、盤を改め、上に薬師山温光寺を建立し、下に温湯の徳化(薬師如来の功徳本願の化身である霊泉の薬効)を広め、諸人の疾苦を救済した。時の国主毛利元就公は、この話を聞いて(温泉場開発の元祖)重佐を湯主とした。ところで、国乱れて後、太守毛利輝元となったこの時、湯主重佐裔孫(伊藤新左衛門)信重は湯税を献上して国恩に酬いた。以来、湯主を伊藤家とした」。

重佐は諸人を疾苦から救うために薬師如来の化身、霊温泉の開発をし、薬師堂を建立したこと、多くの疾苦者を救済したこと、元就は重佐の高徳にたいして重佐を湯主としたこと、以来湯主を伊藤家としたことが分かります。中でも御薬師堂は伊藤重佐の発願の象徴であることを明記しています。

天保の時代、温泉津を訪ねた広島城沙門惟柔(頼杏坪)は温泉津村の当時の様子を次のように漢詩に納めています。

古廟あり霊温泉出る
一郷これを頼みて生活を為す
耕さず織らず僧家に似て
赤裸の人これ檀越
天公の恵み斯民知らず

伊藤重佐の湯治場温泉開発のおかげで一村の人は暮しが出来ているが、この村の草創のこと、天与の霊温泉のことについて語る人がいないのか、天公のめぐみに感謝することをこの村の人は知らない。

薬師如来を祀る泉薬湯元湯の御薬師堂は、重佐の発願の象徴であるとともに、温泉地温泉津の村草創のシンボルです。この事と並んで大切なことは、薬師堂建立以来今日まで数百年間朝夕の勤行、温泉場の継承を勤めてきた湯主のお陰と、泉薬湯の徳化のご縁を頂いた人々のお陰で続いている温泉地であるということです。この町で、「歴史で飯が食えるか」と言う声を聞いたこともあります。頼杏坪の見た「天公の恵み斯く民知らず」と詠まれているように、土地の歴史を知ろうとしない、先人の苦労を知ろうとしない利益至上主義が、先人の貴重な遺産、文化の破壊を加速させているように思われます。利益至上主義に襲われ、その流れに乗った町作りであっては、いくら知恵を絞ったところで町づくり計画は成就しないでしょう。

(藤昇)

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