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 雪舟の風景   第三部 山口編
11. 友人
 雪舟は青壮年期の大部分を相国寺で過ごしたことから、彼の人生に影響を与えた友人は多く、また逸材ばかりで西国のものが多かった。竜崗真圭、勝剛長柔、牧松周省、桂庵玄樹、了庵桂悟、こう之恵鳳、汝南恵徹、季弘大叔ら雪舟を取り巻く友人たちはいずれも大内氏と深い関係の人々で、また京都における著名な文化人であり、詩僧であった。
 このような文化的情報を友人たちから得た雪舟は次第に周防へと心が動いていった。京都内外の情報に加えて門閥主義の禅林に嫌気を起こしたのであろうか、雪舟は画壇自体のあり方にも不満を抱いていた。
 雪舟はこのような画壇のあり方を見て悲観的な日々を過ごしていたが、ついに思い立って山口の地へ足を運んだ。
 ともあれ、雪舟は相国寺を出たが、禅は捨てなかった。彼は終生、禅僧であったし、画趣もしばしば禅の精神を用いている。


12. 大内氏
 周文派画法のマンネリズムを嫌った雪舟は周防山口に身の置きどころを求めた。山口は朝鮮、中国と最短距離にあり、貿易品としての中国の絵画を目のあたりに研究でき、新画法の展開も実現可能なところであった。このような貿易にかけている町のイメージはただ中国から輸入した絵を模写するにすぎない周文派の画法のそれとはまるで違ったものであった。そして領主大内教弘は文化的にもすぐれた理解者で、山口に第二の京都といわれるようなすばらしい町づくりを採り入れるとともに積極的な文化政策を進めていた。


13. 雲谷庵
 山口にたどりついた雪舟は大内氏の保護を受けて雲谷庵に落ち着いた。現在、その雲谷庵と伝えられる場所が2説ある。1つは山口市宮野の澄清寺跡であり、いま1つは近藤清石が再興した同市天花に現存する雲谷庵である。
 この雲谷庵は雪舟の友人であり、大内氏とも深いつながりがあった以参周省らのあっせんもあったであろうが、大内氏が雪舟のためにこの庵を設けて雪舟の来訪を待っていたもののようだ。後に天開図画楼(てんかいとがろう)として生活の安定をみることになるが、そのことは文明18年(1486)の了庵桂悟の「天開図画楼記」によって知られる。



雲谷庵
14. 常栄寺
 常栄寺には雪舟が作った枯山水庭がある。作庭年代は明確ではないが、大内政弘の依頼に応じて、大内氏別荘に作庭したといわれるから教弘が死没した寛正6年(1465)以後のことであろう。もともと大内氏は武はもとより文にもすぐれた政策をとっており、殊に芸術の愛好は並々ではなかった。
 雪舟が築いた庭は常栄寺本堂に面した裏庭にある。この庭の特徴は中央にある池の中の鶴亀石組や岩島の配置、そして手前の枯山水的な石組、山畔の石組などにあり、その構成は見事である。



常栄寺雪舟庭園
(国指定史跡及び名勝)
15. 小京都
 古都山口を彩る五重塔は、曹洞宗の古刹(こさつ)瑠璃光寺の境内にあって、誰の目にもすがすがしい対象として写っている。この古塔の向かい合わせに雲谷庵や大内氏邸宅跡などがあって、山口は、みやびやかな街のたたずまいを見せている。
 雪舟がこの山口を訪問した訳は大内氏の繁栄ぶりはもちろんのことだが、この街のもつ古典的な風雅であった。何しろ大内氏の経済力はすばらしく盛見のころは前代に倍するものがあり、香積寺に五重塔を建立している。香積寺はもともと大内弘世が応安4年(1371)ごろ肥後の石屏子介を開山として招請し建立した寺で、義弘の戦死後菩提(ぼだい)寺とした。雪舟としては「雪舟二字説」を依頼した竜崗とはこの香積寺を通じて親密な関係があったようである。



瑠璃光寺
ますだしりつ せっしゅうのさと きねんかん
益田市立雪舟の郷記念館
〒698-0003 島根県益田市乙吉町イ1149
TEL/FAX : 0856-24-0500
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