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 雪舟の風景   第五部 九州編
22. 魚楽園
 福岡県の中央部・田川郡の細長い盆地に川崎町がある。この町の荒平地区に古くから雪舟作庭といわれる藤江氏魚楽園があり、昭和53年、特別史跡名勝天然記念物の指定を受けている。
 雪舟がこの地を訪問したのは明から帰朝した後、大友親繁(おおともちかしげ)の招きで大分に向かう途中、立ち寄ったと考えられる。雪舟は多分、川崎町から添田町の亀石坊、深耶馬渓、由布院、大分とたどったものだろう。雪舟が明から帰朝したのは、文明元年(1469)5月下旬である。寧波(ニンポー)で除璉(じょれん)から送別の詩をもらい、船団を組んで帰国した。雪舟が乗った大内船は筑前に着いたが、山口へすぐに帰ったのか、直ちに大分に行ったかは不明である。応仁の乱が治まったのは文明9年のことであるから、この期間の周防国は乱れていた。雪舟としては大内氏や入明に当たって努力してくれた人々に報告をすることが先決問題であったが、兵乱のない豊前、豊後を訪問したようである。



藤江氏魚楽園(国指定)
(福岡県田川郡川崎町)
23. 天開図画楼
 雪舟は豊後に滞在し、天開図画楼というアトリエに住んだ。雪舟の友人の禅僧、呆夫良心(ほうふりょうしん)がかいた「天開図楼記」によると、広々とした大自然の風景を採り入れたアトリエだったことがよく分かる。図画楼記を読むと雪舟が住んでいるこのアトリエに多くの人が集まり、絵を求め、教えを請うたと記している。この800字にも及ぶ長文の天開図画楼記は、雪舟に対する多少のほめ言葉はあるものの、雪舟の伝記と作風を知る上で大変貴重である。
 ともかく雪舟は周防における不安な政情の乱れを避けて、大友親繁の居城、大分に足を運んだ。府内とあるから別府湾が眺望できる景色のよい高台に住んだのであろう。一説には入明以来親交が厚かった桂庵玄樹が豊後の万寿寺に行くというので行動を共にしたという。
 現在、大分市の上野にある金剛宝戒寺の境内に「天開図画楼跡」という碑が建っている。



天開図画楼碑
(大分市上野丘金剛宝戒寺)
24. 沈堕の滝
 雪舟は大友氏の手厚い保護の下で天開図画楼に住み、穏やかな日を送っていたが、やがてこの安住の地にも兵乱の波が押し寄せてきたので、この地を去ることになった。
 このころの雪舟の絵に「鎮田瀑(ばく)布図」がある。この絵は大正大震災で失われたが、雪舟の帰朝後間もない秀作の1つでだった。幸いにもその模本が残っている。これは日本の実景をスケッチしたものとしては最初のもののようだ。
 この滝の存在感をもっと高めようと狙った大野町はいち早く雪舟サミットグループに合流し、ユニークな町の行政に関連付けている。この町は大友氏の発祥の地ともいわれ、史跡も多く、農道空港の完成とともに新旧とりどりにふれあいの町づくりに励んでいる。



沈堕の滝
(大分県豊後大野市)
25. 諸国遍歴
 雪舟は一寺を守り、安定した生活を送るような僧ではなかった。彼は大自然を師と仰ぎ、旅から旅へと遍歴を重ね、旅に死んだ芭蕉はこのような雪舟の旅を師と仰いで、旅を枕にして俳句の世界に光を与えている。
 雪舟は大分を去るといったん山口に立ち戻った。大分を去った原因に豊後国にも兵乱が起こり、決して安穏ではなくなったことが挙げられるが、1つには「天開図楼記」にみられるように雪舟が同じ所に長く滞在すると多くの人が何かと集まり、彼の作画活動を邪魔されるきらいがあったからだという。
 雪舟の絵は自然との対話のなかにテーマとして描かれる。それは長年、修行した禅の道でもあるのだ。こうした絵は50歳代にして雪舟様式として確立したものとみられ、明らかに入明以前とは違った自然そのものへの挑戦があり、画家としての主体性、独自性に目覚めたものであった。


ますだしりつ せっしゅうのさと きねんかん
益田市立雪舟の郷記念館
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