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 雪舟の風景   第六部 益田編
26. 益田氏
 雪舟筆と伝えられる肖像画の中に「益田兼堯(かねたか)像」がある。この絵には「雪舟」という黒文重廓方印と文明11年(1479)の竹心周鼎(しゅうてい)の賛が着いていることから、当時、雪舟は益田を訪れ、城主の兼堯に会っていると思われる。益田氏は山陰の一角を占める武将で、この肖像画によって広く知られるようになった。
 兼堯は益田城第15代当主で、益田氏中興の英主である。元来、益田氏と大内氏との交渉は親密で、しかも長期にわたっている。殊に兼堯と大内氏の重臣、陶弘護(すえひろもり)とは重婚の間柄であった上に、兼堯自身も、その子貞兼もまた孫の宗兼も3代そろって大内氏のために従軍していて勲功を立てている。
 益田氏の代々は崇仏の念が厚く、多くの寺院に寺領を寄進し、その建立や補修に努めている。雪舟が訪れた時、兼堯は貞兼に世を譲り、悠々自適の閑居生活をしていた。



「益田兼堯像」
雪舟筆(重文)
27. 萬福寺
 雪舟はしばらくこの萬福寺にとどまり、気の赴くままに寺の北庭に池泉回遊式庭園を造った。画家の雪舟が築庭を試みるのはいささか勝手が違う感がするけれど芬陀院(ふんだいん)や常栄寺の場合と同じように、庭の構成に山水図の観念を盛り込むとしたらいっこうに不似合いではないはずで、むしろ雪舟の多才な創作意欲を知ることができる。
 この庭は中央の小高い須弥山(しゅみせん)の石組の集団が中心で、その下に心字池を造り、書院前面を平地としている。須弥山手法の石組は、須弥山石を中心に螺旋形(らせんけい)を描くように下降している。さらに須弥山の右方に枯滝石組があり、左方はなだらかな斜面上に三尊石が置かれ、全体にみて配石が安定している。
 こうして雪舟は一生不住を原則とした時宗の宗旨に共感し、石山を中心とした庭の意匠として「無心」の芸術を築いた。



萬福寺雪舟庭園
(国史跡及び名勝)
28. 医光寺
 崇観寺住職応俊の後を継いで入山した雪舟は寺の後方の山肌を利用して築庭した。
 雪舟が築いた庭は当山背後の山畔を利用したもので、枯滝(かれたき)石組の上方に須弥山石を置いている。平地には鶴池を掘り、池の中には中心石、三尊石を背にした亀島を置き、その対岸に鶴石組をもつ蓬莱(ほうらい)山水庭園である。さらに山畔上部に枝垂れ桜(しだれざくら)の巨木があって、春ともなると垂れ枝に満開の花を付け、微妙にそよぐ趣は絶賛に値する。
 禅は「以心伝心、教外別伝(きょうげべつでん)」
で、その教えとするところは文字ではなく、心にあると言われている。したがってその芸術は心の芸術であるわけで、作庭も例外ではなく、その心は「無心」である。その無心を芸術として庭に表したのが枯山水(かれさんすい)であり、石庭となっているのである。



医光寺雪舟庭園
(国史跡及び名勝)
29. 山寺図
 「古画備考」に収集されている資料の中に、村庵霊彦が着賛している雪舟筆の「山寺図」がある。この絵はもともと江戸の狩野派が持っていたが、火災で失ったらしく現在ではその模本しか残っていない。村庵は相国寺の僧で賛には81歳とある。
 雪舟がこのような日本の風景をスケッチしたのは、豊後の沈堕の滝に次ぐ2例目である。このように水墨画を日本化しようと試みたのは、あくまでも中国的であるよりは、旅を重ねるうちに日本の風景に順応せざるを得なかったのではなかろうか。
 この図柄はまさに雪舟の行程を示すパノラマで山口から益田に向かって旅をした時の山河を詳細に描いた図である。近景の巨木は益田領境にある松。ここから丸い山(稲積山)の右麓をたどる石州街道を歩いて益田郷に向かった。中段右に見える山は益田城で益田川の手前に妙義寺(益田氏菩提寺)を描いた。中央の山は秋葉山。麓に式内社石勝神社の社殿。傍らに清滝が落ちている。中段左側は別当寺(勝達寺)。山麓に萬福寺が見える。この図柄一帯は神社仏閣の聖地であって、中央の鳥居がとても印象的。雪舟にとっては益田氏の城下そのものが敬虔な聖地そのものだったのである。



益田川より萬福寺を望む
30. 花鳥図屏風
 雪舟在住のころのいま1つの傑作に花鳥図屏風(びょうぶ)がある。文明15年(1483)4月、益田兼堯の孫の宗兼が家督を相続した時、その祝いに雪舟が描いた花鳥画の屏風である。恐らく、雪舟は文明11年以後、益田を離れて京都に向かうが、所用を終えて山口へ帰る途中、再び益田に立ち寄って制作したものだろう。
 益田氏は祖父の兼堯以下、貞兼、宗兼と3代にわたって健在で、多幸多福の雰囲気の中でこの祝賀が催されたのである。宗兼の母は津和野城主吉見頼弘の娘で、室は陶弘護(すえひろもり)の娘だった。
 雪舟が描いた花鳥図はそう多くはない。雪舟の粋は山水画である。そうかといって山水画だけを丹念に描いたのでもなく、人物画もあるし、花鳥図にも筆を染めている。花鳥図は桃山時代に入ると遠近景の奥行きがなくなり、やがて近景のみが殊更に強調され、結局は模倣化し、ただの装飾的存在となって、ついには空間部分が金地によってうめられた障屏画(しょうびょうが)になってしまうことを考えると、雪舟の花鳥図の持つ意味は山水を背景に負って、遠近性を表現しているだけに花鳥図創造への過程が生々しくよみとれる。


花鳥図屏風
ますだしりつ せっしゅうのさと きねんかん
益田市立雪舟の郷記念館
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