TOPへもどる
 雪舟の風景   第七部 畿内編
31. 天橋立
 雪舟筆「天橋立図」(あまのはしだてず)の制作年代は図中に描かれた智恩寺の多宝塔の存在により、明応9年(1500)以降とされている。
 この天橋立図は、雪舟の数ある絵の中でも画筆のタッチが、むしろ若々しく感じられ、画風からみても、あの「山水長巻」の老練な風格があまりみられない。このため明応年間(1492~1501)に描いた晩年のものではなく、文明年間(1469~1487)に益田から京に向かった時、この地を訪問。絶景をスケッチし、後年大作に仕上げようとして手元に持っていたが、たまたま山口を訪れた学僧たちの話を聞いて加筆した可能性が考えられる。
 「天橋立図」は近景に東岸の連山を画面下方に描き、橋立の砂嘴(さし)との間に数隻の舟を浮かべ、中央には空に突き抜けるように世野山を、左方に文殊堂を克明に描いた。宋画に見える深遠法山水の鳥瞰的(ちょうかんてき)な手法だが、構図の中は霞(かすみ)を多く用いてはいない。近景も遠景も細部をぼかすというよな情緒的な感じはなく、むしろ冷徹な目で画面いっぱいに左右の構成を考えて精巧に描いている。



京都府宮津市 天橋立
32. 多宝塔
 「天橋立図」は現地で描いたものと考えると明応10年以降、老骨にむち打って飢きんや一揆(いっき)、さらに武将間の争いが各地に続発していた不安な世相の中を長旅したということになる。
 「天橋立図」中に見える多宝塔は明応9年、丹後守護一色氏の武将で、対岸の府中城主延永修理進が一の宮別当大聖院の僧智海に病気全快を感謝して建てさせた。二重層の塔は今も完全に保護されている。何しろ明応9年は雪舟の最晩年で世相も不安だった。そこで、私は文明年間、雪舟が益田から京都に向かった時、船便で日本海を航海し、宮津港に入港した後、天の橋立を訪れてスケッチしたものと思っている。
 天橋立図の鳥瞰的(ちょうかんてき)スケッチのヒントは1つは海上からの眺望によるもので、冠島、沓島(くつじま)の書入れがあることだ。つまり、日本海航路をたどった雪舟は冠島の傍らを通過後、宮津湾に入港し、智恩寺へ向かう途中の栗田峠に腰を落ち着けた。そこで入念にスケッチして智恩寺にいき、寺僧に対岸の寺院や神社の説明を聞いて書入れをして成相寺などを実地に訪れ、書き込んだのだろう。雪舟の風景画はそれほど雪舟の心の糧として、偽りのない風景画として残しておきたかったのである。



智恩寺多宝塔
33. 東遊
 文明13年(1481)の秋、雪舟は美濃国霊薬山正法寺に赴いた。正法寺は正平年間(1346~1370)に守護、土岐氏の菩提寺(ぼだいじ)として建立され、以来、堂塔を整備していたが、雪舟が訪れた十数年後に焼失し、土岐氏の滅亡とともに衰退した。現在はこんもりとした木立の中に小堂を設け、薬師如来が安置してある。
 雪舟は天の橋立、正法寺、相国寺、東福寺、海会寺など近畿を一巡して帰路に就いた。山陽路や瀬戸内海航路を利用して西へ向かったが、ともかく三原をたどり仏通寺を訪問している。この寺には雪舟が住んだという篩月庵(しげつあん)がつつましく残されている。
 この地方には雪舟ゆかりの地として庄原市の円通寺、広島県世羅町の康徳寺、同県甲山町の円満寺、岡山県芳井町の重玄寺などがめじろおしに存在する。おそらく雪舟はこのような臨済宗系の寺を巡りながら、中国山地を横断して益田城下に入り、「花鳥図屏風」一双を描いて益田家に贈り、山口の雲谷庵に帰り着いたと思われる。



岐阜市指定史跡
正法寺跡
34. 悠々自適
 文明18年(1486)に東福寺を代表して了庵桂悟が山口を訪れ、雪舟のため「天開図画楼記」を書いている。この了庵の図画楼記は蔗軒日録(しょけんにちろく)や蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)によると、同年6月6日京都を出発して目的の周防に着き、翌19年3月27日に帰京しているので、雪舟67歳の夏、周防に着くとすぐ書いたものと思われる。
 雪舟は興にのり自由に、また人に依頼されるなどして多くの作品を描いた。万里集九の「屏風雪舟揚公所画跋」をみても、12枚の小画がはられていたとあるが、これも1つの例である。雪舟の作品を神品の上々といい、雪舟が描こうとするときは、まず、清酒を飲み、気持ちよく尺八を吹き、和歌を歌い、詩を吟詠し、両足を投げ出して座り、その後で意気揚々と描いたという。
 雪舟80歳の時、宗淵と親しく手紙を交換している。文面から子弟愛の温かさや画業を修業することの厳しさが見られる。雪舟は山口に滞在しながら、多くの画僧、詩僧たちの訪問を受けて、悠々自適の生活を送っている。



寺崎広業筆「天開図画楼図」
35. 山水長巻
 雪舟の大傑作は何と言っても「山水長巻」である。この長巻は突如としてその形式が生まれ大傑作となったのではない。雪舟は以前からこのような図巻を試みている。それらは京都国立博物館本「四季山水図」、山口県立美術館本「山水小巻」のほか、模本で知られる「倣夏圭(ほうかけい)山水図巻」などであり、いずれも山水長巻に連なる習作とみてよいだろう。
 山水長巻の巻末には「文明十八年(1486)嘉平日天童前第一座雪舟叟等揚六十有七歳筆受」という署名がある。「筆受」と殊更に記したのは夏圭の作風に倣ったが自分流の解釈で描いたという意識と自負心があったからだろう。
 在明中に描いた傑作「四季山水図」は夏圭や牧谿(もっけい)風で対象の把握や描線の引き方に模倣するものがあって雪舟独自の迫力はないが、この図巻は「筆受」と書かれた程に強い個性が見られる。中国的な山水はあっても、基盤となるのは禅の心であり「天開」の広がりでもある。それは虚心坦懐(たんかい)に画業に専念した雪舟の素朴な姿の表れでもあるといえよう。



36. 慧可断臂図
 「慧可断臂図」(えかだんぴず)には「四明天童第一座雪舟行年七十七歳謹図之」という款記がある。雪舟はこの図を描くに当たって禅僧であることを自覚し、禅精神の聖なるものに浸って厳粛な気持ちで描いている。この図は巨大な岩壁に今にも押しつぶされそうな岩窟(がんくつ)の中で、慧可が自分の左臂(ひだりひじ)を断ち切って達磨(だるま)の前に差し出している姿を描いている。
 「慧可断臂図」は歴史的にも有名な故事であるから、描くに当たって説明的なものであっては崇高な禅画は浮いてしまうだろう。もとより禅は何にも限定されない「無」である。「禅」を意識して描いたとしたら、もうそれでは禅でなくなってしまう。禅画というものは「禅」そのものを描くのではなくて禅への機縁を描くことが肝要だという。
 従って慧可断臂図の表現は描写的ではなく、一気に直覚的にあまり筆を入れない形式にしている。



ますだしりつ せっしゅうのさと きねんかん
益田市立雪舟の郷記念館
〒698-0003 島根県益田市乙吉町イ1149
TEL/FAX : 0856-24-0500
http://www.iwami.or.jp/sessyu3/