敷地内散策

元湯と歴史を共にした縁深い建造物や造形物。
それぞれの歴史的背景や込められた願いを紹介しています。

医王山 温光寺 薬師堂 薬師堂建立  弘治元年(1555年)以前
本尊中央  霊温泉 泉薬湯の化身 薬師瑠璃光如来
中央前  十二神将
脇侍右  日光菩薩
脇侍左  月光菩薩
※本尊御開帳は三十三年毎(次回御開帳2052年)

薬師堂は一名温光寺という。江戸時代になってから温光寺という寺の名では公の記録にあらわれないので江戸時代以前に温光寺と言われていたと推察される。
この寺の名があらわれるのは弘治元年(1555年)に記した「温泉記の釈文」である。
ついで、天正15年(1587年)に細川幽斎が温泉津に来た時の町衆会合に「温光寺」が参加しているとする記録がある。(惠珖寺文書)

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menu_book歴史紹介ブログ「温泉津旅情11 泉薬湯温泉津温泉元湯 温泉記の釈文」

医王山 温光寺 地蔵堂 地蔵堂建立  安永5年(1776年)
本尊中央  釈迦如来
脇侍右  安永の大地震の時、源泉から出土された地蔵菩薩
脇侍左  十王尊
※現在の源泉はこの地蔵堂の下にあり、静かに耳を澄ますと
ポコポコと湯の湧く音が聞こえてくる。

狸の池 薬師堂裏の崖上に古代の源泉の跡があり、狸が見つけた温泉の由来からここが「狸の池」と言い伝えられている。
崖の亀裂には古代、温泉が流れていたと思われる跡がある。

狸の池発見伝説は、温光寺薬師堂に奉納されている弘治元年(1555年)の年号を持つ「温泉記の釈文」の扁額に記されている。
また、18代湯主伊藤恕介により温泉縁起創作童話として、昭和16年(1941年)に書籍化され、
それに先駆け昭和15年に当時の広島中央放送局で童話放送が行われた。
現在、さらに挿絵と多少のアレンジを加え、館内閲覧用として絵本が置いてある。

menu_book参考史料「狸の池のお話」(元湯温泉縁起創作童話 絵本)
menu_book参考史料「温泉縁起創作童話」(興亜少年隊)
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湯の華石 湯の華石は、湯の華の累積が岩を形造り、
木の葉や虫の跡が交じり合って年代の深さを物語っている。
温泉前の畳一枚大の湯の華石は万年石と呼ばれている。
かつての新聞記事には「牛や馬が負傷したときに傷あとにつけると効き目があると云われ、農家の人がふちを削って帰るというからなかなかの名物石である。」と記載されている。

原爆症適應記念碑 昭和32年(1957年)着工、昭和38年(1963年)7月7日竣工
『霊泉である元湯が原爆後遺症にも適應することを永遠に記念する』ため九州大学名誉教授松浦理学博士の考案により広島原爆被爆者の方々の浄財を受け造られた記念碑。昭和42年に原爆被爆者有福温泉療養研究所が発足するまでの、昭和31年~41年の11年間に、元湯長命館(現在は閉館)で湯治を行った被爆者は7,316名、年間平均670名であった。

当時、18代湯主伊藤恕介は原爆後遺症に悩む被爆者治療団を無償で受け入れ、自らの経験と代々伝わる入浴方法、飲泉法を教授し、温泉療法、湯治治療の普及に尽力した。元湯温泉の医学的研究が本格化するきっかけとなったのは、広島原爆被爆者唐立君代氏が自身の元湯での湯治体験により被爆症状が好転し、被爆者に対して元湯温泉が著効のあることを医学的に証明してもらいたいという申し入れがあったことに始まる。

九州大学、広島大学、岡山大学の温泉医学研究有識者による臨地試験が始まり、その結果、九州大学大分温泉治療研究所長(別府原爆センター)、八田秋博士が「白血球が正常に戻り、放射能による障害、神経痛に効果がある温泉」と学会で発表。当時の厚生省国立衛生試験所小幡技官、日本温泉厚生協会理事長卜部氏の泉源調査でも「原爆後遺症に効果がある」と発表され、温泉成分から見て考えられる医学的効果を示した。
昭和32年当時の島根新聞に卜部氏談として「500カ所近い全国の温泉を調べたが元湯ほど自然湧出量の豊富な温泉は珍しく、しかも環境が素晴らしい。これを観光面に利用するのは不自然で、あくまでも微量ラドン、鉄などの成分を生かした適応症による療養温泉として利用すべきである」と記載されている。これらの結果を受け、温泉津に原爆療養センター建設計画が進んでいたが、当時の町議会、旅館組合が反対し、温泉津への原爆療養センター建設は実現せず、その後、江津市(有福温泉)へ建設されることとなる。

また、18代湯主 伊藤恕介は、全国で初めてのケースであったが、昭和46年、泉源の県文化財(天然記念物)指定を申請した。
当時、温泉の中にはろ過や加水、掘削、抑揚など人工的に手を加え、療養泉から観光泉へと自然の姿を失っていくところが増え、新泉源の乱掘などにより、温泉の枯渇や温度低下が取りざたされていた。原爆後遺症に特効があるとされた元湯を自然開発が進む中、泉脈破壊という事件を防ぎたい、生きている温泉の姿を守りたいという願いのもと、松浦理学博士をはじめ多くの有識者から指定申請の示唆を受けた。しかしながら、前例のない申請は通ることはなかった。

menu_book参考史料「昭和30年~40年頃の元湯と原爆症に関する新聞記事」
menu_book参考文献「原爆被害者と温泉津 別府原爆センター 八田秋」

長命館 長命館は木造3階建て、幅一間の廊下を真中に左右6~10畳の本間の和室が並んでいる。
廊下と部屋とは襖で仕切ってある。昭和40年前半は襖ではなく障子であった。部屋の天井はすこぶる高く造ってあり、長期滞在者には圧迫感のない開放感に充ちたものである。2階、3階と続く階段の踏み板は中央の部分が昇降の数を物語るかのように凹んでいる。手摺は昇り降りする時の手の平ですり磨かれ、アメ色の木肌は鈍く光り輝いている。利用客と宿の永い歴史を物語っている。

昭和20年、敗色濃い日本は国民総動員本土決戦体制に入っていた。
敗戦間もない昭和24年、栄養失調、過労から母乳不足に悩む農村の若い母親達のために農村母子保養館として長命館を開放。毎日赤ん坊を連れた母親がやってきて元湯に入り休養をとり、母乳がよく出るようになったと喜ばれた。(⇒子宝記念母子像)
昭和30年以降、宿泊費無料で原爆被爆者を受け入れ、湯治療養宿として温泉医学研究に全面的に協力。18代湯主伊藤恕介は原爆被爆者温泉保養所・療養研究所の設立に尽力したが、当時の町議会・旅館組合が当町への施設建設に反対し、実現しなかった。(⇒原爆症適應記念碑)

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menu_book参考史料「長命館のいろいろ写真館」

飲泉塔 吐泉龍 昭和63年(1998年)4月竣工
全高 2700cm 龍高 1700cm 円台直径 1500cm
石材龍尾頂部宝球  インド産赤御影石
吐泉龍本体  ポルトガル産青御影石
円形高杯台  中国産白御影石
創作者  石工彫刻家 隣村福光市坪内悦次おもや石材店 坪内正史氏

ボタンを押すと龍の口から温泉が吐き出る様から吐泉龍の名前がつけられた。龍尾に宝珠を抱え込み、とぐろを巻いて宝珠を天高く持ち上げ護衛している。これは、二つとない大切な温泉源を守護する龍の姿を現している。
吐泉龍は天与の大切な温泉の飲用普及が目的で19代湯主伊藤昇介が建立したもの。

飲泉指導を積極的に行っていた18代湯主伊藤恕介について、昭和34年2月発行の藤沢薬方に「温泉津温泉」と題し、別府市九大温泉治療学研究所長矢野良一氏の記述がある。
「…I氏は先祖伝承の元湯による各種疾病殊に胃腸病の温泉治療を指導している。戦前には欧州の温泉へもでかけて、かの地の事情にも詳しく、とにかく温泉治療に熱心な篤学の士である。I氏は多飲を戒めているが、正にこのとおりである。…」

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menu_book参考史料「昭和34年2月発行 藤沢薬方」
menu_book参考史料「飲泉塔吐泉龍建立時の新聞記事」

子宝記念母子像 昭和50年(1975年)1月竣工
セメント製(粘土で原形、石こうで型を作り、セメントで仕上げたもの)
母子像 高さ92㎝ 横幅35㎝
台座 高さ 126㎝ 縦100㎝ 横幅62㎝
創作者  彫刻家 久保博士氏

温泉津松溪山窯で陶土を材料に造型の研究をしていた久保氏が半年間温泉にお世話になったお礼にと制作したもの。

終戦直後の昭和24年、当時の食糧事情を反映して、栄養失調、過労から母乳不足に悩む農村の若い母親が多かった。その母親達のために、18代湯主伊藤恕介が元湯長命館を「農村母子保養館」として開放した。毎日20人前後の赤ちゃんを連れた母親が入湯し、休養をとることで乳がよく出るようになったと喜んでいたという話をヒントに母と子がお互いに目をかわし合った母子像を彫刻しようと思い立ったという。

menu_book参考史料「子宝記念母子像建立時の新聞記事」

妙好人 浅原才市座像 昭和56年(1981年)1月建立
発案者 18代湯主伊藤恕介
世話人 19代湯主伊藤昇介
建立者 青柳三治郎 他31名
創作者 同町陶芸家 山本梅雄氏

18代湯主伊藤恕介が生前強く建立を願ったが叶わず、19代湯主伊藤昇介がその遺志を継ぎ、当町有志の方々の浄財も受け建立に至った。

【浅原才市像建立にあたって】1981年1月 19代湯主 伊藤昇介
~我が国の生んだ最もすぐれた仏教哲学者、鈴木大拙博士は日本人の精神の中にあるものを浅原才市の生涯を通して識っておくことは大切なことであるといっておられる。博士は才市を「非凡の宗教文学的天才である」とも「詩人にして実質的大哲学者を兼ねるもの」とも評されている。宗教詩人浅原才市の世界は学問がなくても思索がなくても人生そのものについて真剣な反省を行った人々にのみ開ける世界である。真の創造の世界である。彼は六十四才頃より亡くなる八十三才までの二十年間にノート六十冊以上歌にして六千首以上の歌を書き残している。 現代社会は科学の社会、技術の社会、物質の社会である。物とか金とか経済優先の社会である。人間らしいものは次第にその影を失ってヒューマニズムも上すべりのものだけしか認められていない。日本人が本来持っているもの、人間としてはこれを失ってはならぬというものが一歩一歩と後退していくように感じられる。 このような時代に宗教詩人、浅原才市を紹介し彼の深遠な精神生活、精神文化に触れることは大変意義深いことと思う。浅原才市1850年当町字小浜に生れ1932年小浜に亡くなった。浅原才市の遺品は駅通りの生家梅木家及び才市と縁りの深い安楽寺に遺されている~

この文章は、鈴木大拙博士と浅原才市という二人の人物について紹介するものである。彼らは日本人の精神や文化を深く探求した。現代社会では、科学や技術や物、金銭が優先され、人間らしさやヒューマニズムが軽視されている。そんな中で、彼らの思想や作品に触れることは、私たちにとって貴重な機会であると語っている。

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menu_book参考文献「浅原才市」

明治維新の志士 新谷道太郎翁の胸像 昭和46年(1971年)2月15日建立
松溪山焼
セメント製(粘土で原形、石こうで型を作り、セメントで仕上げたもの)
胸像 高さ 52㎝ 幅45㎝
台座 高さ 160㎝
創作者  同町陶芸家 山本梅雄氏

翁は弘化4年(1847年)2月15日、広島県豊田郡御手洗島に生まれた。
山岡鉄舟に無刀流の剣を学び8段の免許を得、坂本竜馬とともに薩長の仲直りに奔走し、四藩連合の討幕密議のあっせんもした。また、討幕資金獲得の為、西本願寺への使いを果たすなど活躍、鳥羽・伏見の戦いでも武功をたてた。
維新後、温泉津町湯里、瑞泉寺の養子となり、17代湯主伊藤為太郎と親交が厚く、晩年の一時期を伊藤家の借家(現在の胸像建立地)で過ごした。

翁は明治維新の原動力となった人であり、晩年は地方の発展に尽くされ、その業績は忘れてはならないとの理由から18代湯主伊藤恕介が翁の胸像を建立した。

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menu_book参考文献「新谷道太郎」
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menu_book参考史料「新谷道太郎翁胸像建立時の新聞記事」